Wednesday, November 23, 2011

Good Food Makes Me Smile. :-)

2011 Winter Bagel Work Shop.

           Lesson.1 Chestnuts and Black Sesame
レーズン酵母 オーガニック全粒強力粉
           栗ペースト(小谷村の友人の手作り)有機甘栗 黒ゴマ

Lesson.2 Pumpkin Cinnamon Raisin
レーズンバナナ酵母 昨年度岩手県産小麦強力粉
有機全粒薄力粉 モラセス 長野県産 かぼちゃ シナモン レーズン

Lesson.3 Salty Suger Cherry
レーズン酵母 自家製塩麹エキス 沖縄産粗製糖
昨年度岩手産小麦強力粉 有機全粒薄力粉
バニラエクストラ ドライチェリー

Monday, August 1, 2011

蝉の鳴かない八月

ご存じ庭猫しろちゃん。

愛猫亡きあと、
彼女との距離は変わらず、
ガラス窓の向こうで、縁側で、
ごはんをさいそくするときだけ
我々を呼んで、お腹いっぱい食べたら
どこ吹く風よ。

暑さも放射性物質もしのぎ、
今日ものんびり庭の主。

これが私の生きる道よ。

ね!しろちゃん

Tuesday, July 12, 2011

Now is the time to blossom!!

blossom Open!!

おかげさまで、弟夫婦が小さなフラワーショップをオープンしました。
古い店舗だった所を内装など2人でコツコツと手づくりした小さな店ですが
私にとっては年上の義妹になる店主YUKIさん。彼女のフローリストとしての
センスと花を愛するやさしさに溢れ、幸せの香りがする空間です。

毎日、個性的な花たちがYUKIさんのチョイスであっという間に
束ねられるその日のブーケは¥1050 とお財布にもやさしくて
贈り物にも自宅用にもピッタリで、家族のお気に入りレコメンドです;-)
アレンジメントや花束の地方発送(場所によっては)当日配達もするそうです!?
カスタムオーダーなど、ご希望あれば対応してくれます。

世田谷の奥座敷、アクセスは少し不便ですが、お近くにお越しの際は
大通りの喧噪からちょっと横丁の緑多い矢沢川通りへ入って
花の香りに癒されにぜひお立ち寄りください。
どうぞよろしくおねがいします。


blossom
〒158-0091 東京都世田谷区中町5-31-9 1F
Tel&Fax 03-6809-8458
E-Mail: blossom.yuki☆gmail.com(☆を@に変えて送信してください)
毎週木曜定休



MAP (ストリートビューの写真は改装前の店舗PONYが写ってます)


交通アクセス
田園都市線 用賀駅よりバス 恵比寿行き 中町五丁目下車
小田急線 成城学園前駅よりバス 等々力操車場行き 中町五丁目下車
その他の バス路線 (ナ行を下へ どの路線でも中町五丁目下車)

Wednesday, June 1, 2011

米と水 1 

放射能に負けない!?米のとぎ汁乳酸菌

きっかけはやっぱり東京の水に放射性物質が検出された時だったと思う。
この原発による放射能汚染で、私が何より反応したのが水と食べ物と空気だったのは
もう、このブログでも書いてきた。こんな悲しい出来事で、その大切さを知るなんて、、
水も空気も食べ物もそこにあることを当然だとして生きてきた愚かさを思い知った。

それからというもの、節電と節水を心がけた。
風呂水はもちろん、米のとぎ汁もペットボトルに取っておく。
米のとぎ汁は、家族の多い我が家ではあっという間にたまっていく。
そのうち並んだペットボトル膨らみはじめた。そう!発酵していたのだ。

せっかくとっておいたもん、捨てるのもったいないし、
バケツに水道水と発酵とぎ汁を入れて家中の床を雑巾がけしてみた。

家の中は一瞬米ぬかの香りでいっぱい。
嫌な感じはなくむしろ気持ちいいぐらい。これぞ発酵アロマテラピー??
思えば、これがとぎ汁乳酸菌への道の入口だったのだ。

 飯山一郎先生の放射能に負けねえど  (←米のとぎ汁乳酸菌の作り方もあり!)


まさか!?この米のとぎ汁乳酸菌が放射能対策になるだなんてね!
そして、これまた冷蔵庫で自然発酵(使い忘れただけ)した豆乳に
この米のとぎ汁乳酸菌混ぜたら自家製豆乳ヨーグルトまでできちゃった!?

飯山先生との(笑える)ツイートQ&A 
米のとぎ汁乳酸菌ヨーグルトができるまで 1 2 3 4 5

            自家製米とぎ汁乳酸菌豆乳ヨーグルトはバナナなどのフルーツ
            とグラノラやナッツにキナコ、ココアやシナモンで風味を変えて
            すっかり朝食の定番に!そして、お腹はいつもすっきりー!



            

             


Sunday, May 22, 2011

風が吹くとき




西の黄色いバラが散り、東に白いバラが咲く

まだ世界は終わらないんだと、花が知らせてくれる

雨がふっても、風がふいても、月が赤く輝いても

まだ世界は終わらないんだと、花が知らせてくれるんだ



Wednesday, May 18, 2011

無花果

スーパーの売れ残り見切り品で見つけた立派なイチジク。
クローヴ、カルダモン、シナモン、ドライレモンピール、
スパイスを効かせて、オーガニック赤ワインでコンポートに。
可能性は未知数 初体験の味は甘く官能的だった。



Dear all my friends

もうもどれない世界がひっくり返って2カ月 いろんな意味で風薫る5月
誕生日のお祝いメッセージや心こもった贈り物どうもありがとうございました。
奇しくも4月8日は311から4週間後、そろそろ大きな余震が..と、どんな人でも
その動物的本能でそれを予感していた頃のことでした。
41回目という、途方にくれそうな年齢を迎える前夜は、明日を楽しみに
不安は睡眠薬にして、40歳最後の寝床につきました。
枕元に置いた宇宙柄の非常用持ち出しリュックには
キャンディーとキャラメル、セージとエルドナックス(キャンドルジュンさんのお店)のキャンドル
地球のレッスンと、2日早く届いたN家からのプレゼントと夢と希望を詰め込んでありました。
リーボックの真っ赤なポンプスニーカーも置いてあります。これを履いて逃げ切るためです。
まるで、クリスマスイヴの夜の子供ような寝床の周りでした。

311以降熟睡できたことはありません。寝汗と悪夢の日々。
無情に鳴り響くのは、iPhoneのゆれくるアプリのサイレン。
この音が鳴るたびに心臓がドキドキするのに、このアプリをはずすことができずにいます。

4月7日日付が変わる20分ぐらい前に、やっぱり鳴りました。
鳴っても揺れないこともあったし、寝がえりを打つのも面倒だったので
何事もなかったように明日を迎えたかったので、鳴っても鳴っても
無視していたら、、揺れ始めました。

揺れはどんどん大きくなっていって、
揺れるたびに1週間づつフラッシュバックしていきました。
揺れもどし、揺れ返し、311以降最大の余震でした。
東京の震度は4だったでしょうか?
私は寝床から起き上がることもできません。テレビもラジオもつけず
やり過ごしていました。東北ではまた被害がでました。

明けて、4月8日ははっきり言って、気持ちのいい天気ではなく
不気味な曇り空で、お世辞にもいい日とは言えない感じでした。
それでも、私は、自分の誕生日をツイッターでアピールして、
みんなに祝ってもらおうとしていました。何か自分が変われる
きっかけがほしかった。ドラマティックで運命的なきっかけを
心のどこかで期待していたんだろうと思います。
みんなからのお祝いされるのを待っていました。
ある人からのメッセージが貰えるものと待っていました。

家族の誕生日や記念日に新宿の伊勢丹でケーキを買うのが
父の楽しみなのですが、今回は卵、乳、小麦抜き中のため、
やんわり母を通じて断りました。こんな日ぐらい、ありがたく
父の気持ちを受け取ればいいのに..それができない。

そういえば、卵と乳製品は、気がつけば無理なく自然に控えられるようになりました。
牛乳に至ってはまったく飲まなくなりました。こんな感じで小麦も抜ければいいのに、
私のパン好き、パンケーキ好き、粉もの好きは周知の通り。
断食も小麦抜きも、意識的にがんばると無理が生じるんだなと
4月はPMSばかりが長く、PMS特有の数日間の爆発的な食欲の波が
やってくると、パンが食べたくなって食べたくなって、日ごろ我慢していた
理性が決壊するんだなと、やけ食いに走りました。
断食したリバウンドもあったのかも知れない。ずっと食べる量を控えていたからなのかも?

そしたら、生理周期が乱れて戸惑い、あっという間に
よくなっていたと思った脱ステロイドのセカンドリバウンドがはじまりました。
こんどは顔だけじゃなく、首から肩、デコルテの辺りが最強に悪化し、背中から
足っ先までグラデーションして全身に広がっていきました。
まだ1カ月前のことなのに、あまりの悪化の早さに、
よくなっていたときのことを忘れてしまいました。

と、またまた、前置きが長くなりましたが、このブログでも書き続けてる
昨年の白内障手術後、信頼していた皮膚科女医さんの突然の失跡などで
悪化してしまったアトピーに、止む終えず、不本意ながらも使うことになってしまった
ステロイド軟こうを2月にいっぺんに止めたので、今まで抑えられてた症状が爆発しました。

いま、全身が炎症を起こし真っ赤に腫れあがり、かきむしり、皮膚が剥がれおち、
外に出るにも出られない酷い状況です。痛い、痛いと鳴き叫んで、縮こまって、
まるで、自分だけがこの世界に取り残されて辛い思いをしているようなヒロインに
なろうとしています。震災以降、日常を取り戻し、自分の道をまい進している人たちが
羨ましくて羨ましくて、どうして私は...などと、バカなこと言ってます。
働けば身体を壊し、相変わらずだなぁ、、と、社会性もまったくなく、
もうみんなには呆れられてるんじゃないか?と思うと怖いです。

なんだかなぁ、被害妄想なのかもしれません。




風が吹いてきました。



清志郎がカバーズを出す前に、おそらく、初めてステージで
「風に吹かれて」のカバーバージョンを歌ったのは、渋谷公会堂で
行われたライブハウス新宿『LOFT』主催のカバースペシャルライブという
イベントライブでのことだったと思います。ステージが終わりに近づくにつれ
スペシャルゲストが数人登場して、最後の最後に「宇宙一のゲストー!!」と呼ばれて
登場したのが清志郎でした。バックには鈴木慶一もちわきまゆみもジョニーサンダースもいました。

そして、おもむろにはじまった1曲が..

「どこまで~ミサイルが飛んだら~戦争は終わるの~♪」

「その~こたえは~ 風の中さ~ 風が知ってるだけさ~♪」

高校生だった私は、このフレーズにしびれました。
一緒に見に行ったのは、今や日本のパティスミスとも呼ばれてる?
元CSKHKHで、元LOVES 同じ高校のひとつ学年下だったA・Hちゃんでした。
それもなんかすごいんだけど、A・Hちゃんとお母様とRCのライブにも一緒に行ったんだよな。
ま、それは置いておいて、、、

チェルノブイリの爆発があったのが高1の時で、広瀬隆氏の2人の娘さんが在校生だったので
危険な話は、学校のお勧め図書だったし、広瀬氏が体育館で講演もしてくれたので、
原発がどれだけ怖いか?若い感受性で漠然と理解していた。
原子力発電の化学的な仕組みはよくわからなくても、放射能は雲に乗って
地球上に飛んでくること、ヨーロッパの食品はじきに放射能汚染されていくから
絶対に食べないようにすること、おそらく広瀬氏が高校生向けに分かりやすく
説明してくれたその話に食いついた。今も昔もそれだけには過剰に反応していた。

今でこそ、パスタはイタリア産しか食べないとか、チョコレートはフランス産のBIOがお気に入りとか
エヴィアンやペリエ、ゲロルシュタイナーだのヨーロッパの硬水は美味しいなんて言っちゃって、
好んで食べているけれど、当時はもう徹底してヨーロッパから輸入される食べ物に過敏になってた。

原発反対!とアトミックカフェライブで叫んでたけど、
それよりももっと声高に欧州輸入食品反対!エヴィアンなんて絶対飲んじゃダメ!と、
ひとりで不買運動していたようなものだった。そのときもやっぱり家族に嫌がられてたような気がする。

これが私の素地になっているんだろう。
チェルノブイリの後に原発反対!と、
あまり意味もわからないまま、ライブに通っては
拳を振り上げてた。原発反対!戦争反対!
それから間もなくして、タイマーズとカバーズ。

でも、すっかり忘れていたんだ。
原発の怖さも、放射能汚染の怖さも、チェルノブイリも、、

311後はしばらくテレビニュースがみられなかった。
津波の映像も原発のことも、見ない聞かないことにしていた。
とにかく、何か見えないものに対して恐怖でいっぱいだったのだ。
このときは、放射能じゃなくて余震だった。

原発のニュースに目を向けるようになったのは
東京にも飛んできたころだった。今、思えば後の祭り、、
とっくに飛んできていたんだと思う。たいした外出こそしなかったけど
マスクなんてしていなかったよ。そして、決定的だったのが水。

東京都の水道水が汚染されたのが、まさに呼び水になって
私を高校生のときの、チェルノブイリのときのあの記憶が揺り起こされたのかもしれない。

まえがきが長くなりました。

わたしにつながる、友達のみなさまへ
お元気ですか?私は、私の顔は眉毛とまつ毛を失い
目は腫れあがり、小さな目はさらにつぶれ、大きな皺ができ、
鼻の下ケロイド症状もあり、これ悪い冗談ですが、
全身ずるむけの外部被ばくみたいな症状になっております。

散歩したり、オープンカフェでお茶したり、そうこうしてる間も
放射能が降り注いできていることを除けば、素敵な季節になってきました。
旅の話も聞きたいし、地震前と後のみんなの心の変化も聞きたいし、
今、どんなことしてるのか知りたいし、私の話も聞いてほしいのだけれど、
ほんとは、こうしてミイラのようになっていて、心細く誰かと話したくてしかたないのだけれど、
外出が困難なので、こうして手紙(ブログだけど)にします。

東京にいる人は、放射能対策はどうしていますか?

放射能対策とはやりのエコでスローなライフと、脱ステロイドのスキンケアには
共通点がいっぱいあって、頭で考えると敵(放射能)は怖いけど、
対策を練って、考えて防御策を行動することは
辛く苦しいことでもないなぁと私は思っています。

むしろ、日々の生活が丁寧になってきます。
目に見えないから、怖さ百倍だし、逃げられない、いらだちと焦りもあるし、
決して慣れたり、忘れたり、なかったことのようにはしたくないけど、
こうしてまだ東京に居る限り、私にできることってなんだろう?と思って、
これから、ツイッターなどネットで集めた情報と、私が身体を通して試してきたことなど
ピックアップしてまとめてみようかと思います。

いつ、それどころじゃなくなる日がくるかもしれないけれど、
なんとか生きのびられるように、今できることをするしかないから。
でも、決して慣れずに、感受し続けていきたいと、子供の未来のためにも!

続く






































                

                

Monday, May 9, 2011

My life as Atopy 5 沐浴



キッチンに蟻が歩きはじめる メープルシロップ

寝汗でかきむしり 二度寝して もう夢はみない

五月晴れの日曜日 帽子とマスク 万国旗

雨の前には水を汲む 風向きは庭の木と

ドイツの気象庁に教えてもらう

バスタブにたっぷり貯めた(塩素抜きした)水を沸かし

久しぶりに 湯船に沈む 

朝陽に映える 傷だらけの肌  

水面に浮くのは我の皮膚屑 これ以上 何をさらけ出せばいいのか?

あっという間に 悠久インドのガンジス河 

生と死が 湯船にゆらり 宇宙にぶらり 

アゲハ蝶が飛ぶ 麟粉が舞う

右手は箒 左手に塵とり どこまで走ればいいのだろう?

いつまで掃けばいいのだろう?

終わらない 春の大運動会 

レレレのレ~♪







Saturday, May 7, 2011

My life as Atopy 4 春の塵

今日も消しゴムのカスのようなボロボロと、細かい粒子のような麟粉を掃いて一日が始まる。
東京の放射性物質の累積量もやっぱりかなりヤバいらしい。
そんな一覧表がTwitterの時の川に流れてきた。



私から剥がれおちる皮膚の粉は目に見える、これが毎日相当の量なのだ。
お茶がらでまとめて掃いてはいるが、掃いても掃いてもあっという間に溜まっていく。
目に見えない放射性物質だって、きっとそうやって溜まっているんじゃないかと思う。

2月に思い立って始めた脱ステロイド、途中2週間の断食(ほんとに断食したのは中3日)をして、
311が起こり、張りつめた緊張感で一時的にリバウンドは小康状態。これは治っていたのではなく、
あまりの非常事態に身体の機能がストップしてしまっていたんだろう。
こんなに早く脱ステロイドリバウンドが落ち着くはずもないのに、断食明けのハイも手伝って
再生と復興をしたんだ!と勘違いしていた。 

復興の前にしなくてはならないことがあるんだと思う。
福島の子供は逃げろ!親たちはなんとしてでも
子供を県外に疎開なり、なんなり離してあげてくれ!
復興よりも何よりも、今生きている未来ある子供たちを守れ!

何にでも段階と順番があるのだと、身をもって感じている。
今、私の身体に起こっていることが、それを教えてくれてる。

空から放射性物質が飛んできて、
東京都の水道水からもそれは検出されパニックを起こし、
4週間後にやってきた大きな余震でフラッシュバック、
すっかり揺りもどされてしまった脱ステロイドによるリバウンドの
私の今の段階はレベル2-3だろうか?

身体のことは、カレンダーをみながら(生理周期などの予測はついても)
計画通り、日程通りに症状が治っていくものではない。
一進一退を繰り返す。毎晩、寝床に入ると痒みは襲ってくる。
せっかく乾き始めた肌を無意識にかきむしっている。
それでも、昨日より今日、今日より明日と、わずかに変化がある。
悪化する時もあるけど、生きている以上、身体はなんとか治癒しようと
頑張ってくれていることに意識を添わせ、自分にできることをしていく。

今はそれが祈りでもある。


毎日、毎日、壮絶な痒みと痛みとともに剥がれおちる死んだ皮膚の屑を見ていたら、
蛇の脱皮が思い浮かんだ。皮が剥がれおちるごとに、私の中からいらないものも剥がれおちていく。
そうであってほしい。ある人は余震で、揺れるたびに生き方がシンプルになっていくと言った。
いらないものがそぎ落とされていく振り落とされていく感覚だろう、共時性というのか?
同じようなことを感じている人は多いと思う。

今までしがみついていたものが、執着していたものがボロボロと落ちていく、
塵取りに集められる、身から出た皮膚の屑はもうどのぐらい剥がれおちたのだろうか?
少しは体重が減ってるんじゃないか?(笑)と思うほど、毎日毎日その粉は私から剥がれおちる。
どれだけ剥がれおちれば、健康な皮膚になってくれるのだろう?

もう、もとにはもどれないのだと、痛みが教えてくれた。
この痛みの辛さになんどもくじけそうになる。
ここで、またステロイドに手を出したら、元も子もなくなってしまう。
もう、311前のようなエネルギー生活、ケミカル生活にはもどれないんだ。

いや、もどらなくてもいいんだ。

今はまだスタート地点に立つ前だけど、道は見えてる。
生きていれば再生できるのだと信じて、たとえそれが
長い道のりだとしても、地に足をつけて歩いてく。

Sunday, May 1, 2011

TULIP WATER 4 花と水

その後、東京に降る雨と水道水の
放射性物質含有率はどんなものなんだろう? 東京の水道局が検出数値の
基準を変えてから、未検出の表示は
信じてない。以来、数値が高くなることはあっても、低くなることはないだろう。お一人様一本でミネラルウォーターを買えるようになったので、母と
交代で買いに行くのも日課になった。
いつの世も水汲みは女の仕事なのか?

そうかも知れない。
水と女は切り離せない。

最近のTwitterは、読めば読むほど
暗く絶望的な気持ちになるが、
気になるのは、福島の子供たちと
水と空気の汚染による、身体への
影響とそれを防ぐための情報には
目がとまってしまう。

ここ数日で気になったのは
ヨウ素131 は、呼吸と肌からも
吸収され甲状腺に蓄積されると
いう情報。

やっぱり、肌から毒が吸収される
経皮毒は避けられそうもないんだな
嫌な予感は、残念ながら、見当ちがいでもなさそうだ。

これは、情報より何より、
身を以て感じていることだ。
毎日リンパ液が滲み出すずる剝けの肌で、浴びるシャワーがどれだけ痛いか!ここ数日は回復どころか、
悪化している。水を浴びれば浴びるほど肌が痛くなるのだ。
しかし、血と汗と臭うリンパ液が
ベトつく肌をそのままにはしておけないので、シャワーを浴びないわけには
いかない。お一人様一本のミネラルウォーターで身体を洗うことも無理な話しだ。塩素抜きシャワーヘッドは使っているが、どうもこの水の感じが
悪い。

Friday, April 29, 2011

背中のタトゥー

アゲハ蝶とツバメ が飛ぶ
この痛み、我が背に春が来たと
思えば耐えられよう

いつか、飛び立つ日がくると信じ
我が背に空が広がる春を待とう

Wednesday, April 27, 2011

「 」 or 「 」





To live, do I eat?
or
To eat, do I live?


Why I stay still here in Tokyo?
or
Why do I want to leave Tokyo?



3.11から4週間が経とうとしていた時のこと、日付変わって誕生日を迎える数十分前に
大きく揺れた余震でフラッシュバック。こんなに不安で緊張した長い一カ月はなかった。
非常時だから、日常を保とうとするのか?

頑なに何かにしがみつき、倒れまいと気を張っていた。がんばってた。
脱ステロイドのために断食した後だったから、ちょっとハイだったんだ。
少し痩せてすっきりもしていたし、調子に乗ってた。
無理してでも調子に乗ってないとやってられなかったんだ。

しかし、断食後の体重と非日常なハイというのは続くわけがない。
急激に減った体重がリバウンドするように、ハイもいずれダウンする。
揺りもどされて当然だ。しかも、人生始まって以来の非常事態。

不安と緊張でバランスをとっていたタイトロープはやっぱり切れた。
で、命綱はギリギリのところで宙ぶらりん。

風が吹くまま、ぶらぶらと何かにぶらさがりながら、なんとか生きてる、
いや、生かされてる宙ぶらりんのこここそが東京なんじゃないか?
上っ面ばかり着飾ってばかで、地がどこだかわからないから、揺れると大騒ぎだ。

そんなんで、自分は世界の中心だと勘違いして今まで生きてきたんだ。
もう、もとには戻れないんだから、もう、折り返してしまったんだから、
そろそろ、気がつくときだろう。


悪化するのはあっという間で、それを治すのには何倍もの時間がかかるのがアトピーの特徴。
で、今は脱ステロイド中ということもあって、揺りもどされるまま酷い状態になってしまった。
痒みは痛みに変わり、身動きできなくなり、焦り、いらだちの悪循環にそうとう落ちた。

やっと気持ちを立て直し、風に吹かれても痛い肌を覆い隠して、帽子にマスクにサングラスで
1カ月ぶりに電車に30分以上乗り、区外の漢方医院まで診察に出かけたのが昨日。

どうやら、最後の診察だったようで、私と同年代で同じアトピーでもある漢方医さんと
問診しながら、世間話もしてきた。話題は水の話になった。
東京の水道水がどのように人の身体に影響を及ぼすのか?アトピーに影響があるのか?
医者にもわからないのだそうである。
で、個人的に先生は(放射能対策は)どうしてるのか?と聞いてみたら、
特別なことはしていないそうである。それどころか、漢方の煎じ薬はミネラルウォーターでは、
薬効成分が抽出されにくいんだそうで、自分の薬は普段の水道水で煎じていると言っていた。

薬効成分が高い、ヨウ素とセシウム入りの水道水で煎じる漢方薬 

or 

薬効成分が弱い、ミネラルウォーターで煎じる漢方薬


昨日の私のチョイスは、この先(明日)何かしら影響が出るかもしれない放射性物質よりも
今日生きるために、この炎症を抑えて治しておきたいアトピーの症状のために、
無駄な抵抗とはわかっていながらも(笑)浄水器と竹炭でろ過した東京の水道水で
(おそらくヨウ素とセシウムが入った)煎じ薬を煮出して飲んだ。

保険は利かない漢方薬、せめて、身体には効いてほしいの切実なう!






















Thursday, April 21, 2011

My life as Atopy 3 巡礼 長い道のり

何か書かずにはいられないのだけれど、心も身体も日々のニュースに追いつけない。
余震に揺りもどされるように、アトピーの状態が悪くなった。
おかしな夢と寝汗が止まらない。生理周期も見事に乱れた。

生理が乱れたのは、放射能物質が風に乗って東京にも降ってきたとき
もう子供は諦めた、、と、身体が心に言い聞かせたからだろうか?
私はそれを身体の声だと思っていたがけど、もしかしたら、心が身体に
そう云い伝えたのかも知れない。自分で自分を暗示にかけたのか?
もう、子供を産むこともないのだから、多少の放射性物質による
内部被ばくも外部被ばくも恐れることはない、、と、この辛い現実を
なんとか乗り越えようとするために、心がそう判断して言い聞かせたんだろう。
生理が1週間ほど遅れて、その間にものすごく全ての体調が狂って悪化した。
まだ更年期を迎えるのは早すぎるだろうし、この生理の遅れは何かのサインだった気がする。
1週間遅れて、月が満ちるころに体重もパンパンに膨れ上がって、
なんとか生理はやってきてくれた。身体は中心軸が見失いながらも、
なんとか、バランスを取ろうと、今日も必死に生きてるようだ。

地震以降、こうして毎日生きていることに、
生かされていることに感謝していたし、人も地球も必ず再生する!と
信じてはいるものの、この状態で、いつも痛みを抱えて生きているのも、
正直けっこう辛い。泣き言もいいたくなる。鳴き叫びたくもなる。

91歳になる大伯母が転んで股関節を骨折し入院して10日が過ぎた。
元気だけが取り柄と言われていた大伯母だったが、手術後の具合がよくなくて
(というか、当たり前だよな、全身麻酔して4時間にも及ぶ手術をしたんだから)
当初の予定の、手術後翌日からのリハビリなんてできるわけがなく、
術後ずっとベッドの上で身動きとれないまま、お腹がつまらせて(便秘)発熱してしまったようだ。

全身麻酔で4時間にも及ぶ手術。翌日からリハビリなんてできるわけないじゃないか?
術後、面会に行った家族は皆、大伯母がリハビリして元通り歩けるようになるとは
残念ながら思えなかった。なんとか退院してもよくて、トイレになんとかいけるぐらいではなかろうか?
寝たきりになってしまう日も近いのではないか?歩けるようになる希望も捨てていないが、
91歳で骨がスカスカにもろくなっている大伯母の現実を見て、両親はすぐに介護等の手続きを始めた。
この介護認定等、福祉制度を受けるためにも、書類を集めて申請し認定されるまでには
1カ月以上かかるのだ。この手続きは退院してからでは遅いのだ。まったくこの国と言ったら...

昨年の秋、私も2度入院をした。2度とも病室は見事に高齢者部屋だった。
寝たきりでも元気な方もいれば、管をつながれ延命されている方も少なくなかった。

秋から春へ 私もまたひとつ歳を重ねて、死へ一歩近づいてる。
老人ホームのようなこの家で、生きることと同時に死ぬことが
よりリアルに近くにあることを知った今日である。


東京の水道水が汚染され、乳幼児には飲ませられない基準になったと、
ミネラルウォーターの買い占め、売り切れで、大騒ぎしたことでさえ遠い日のことようだ。
あの頃は大変だったね、とそう言えるなら、それでいい。

世田谷区から乳幼児のいる家庭へのペットボトル水を配給するというニュースメールが
2度ほど届いた。それからはもうそんな知らせはない。
それからチェックするようになった東京都水道局の発表する
検査結果にならぶ文字は「未検出」。この結果に半信半疑ながらも、
だから世田谷区の水の配給が終わったのか????

ならば、大人は水を飲もうじゃないか?傷のある肌でシャワーを浴びようじゃないか?

現実はまたひっくり返っていた。

水道水に含まれる放射性物質の基準数値が引き上げられただけだった。

ほんとうの敵は、放射性物質ではなく(政府の)人間なのか?

赤く月が昇ったという話も時の流れで読んだ。そんな月とともに、私の生理もなんとか終わり
また次の卵を産もうとしている、こんなときに?いや、こんなときだからこそなのかも知れない。
私の身体はほんとうは未だ子供をほしいと願っているようでもある。
こればかりは私一人ではどうにもならないけれど、そんな身体を最後まで大事にしてあげたい。
それが、今の私の生きる希望なのかもしれないし、だから、こんなに揺れてるのかもしれない。



         近所で捨てられて以来、すっかり庭に住みついてる、ご存知しろちゃん。
         ちょっとずーずーしくなってきたけど(笑)毎朝、彼女の顔見るとほっとする。

Monday, April 11, 2011

Friday, April 8, 2011

Happy Re:Birthday Morning.

「いただきます」という言葉は、

あなたの命をいただくということ。

Thank you!!




Thursday, April 7, 2011

水と甘夏の日々2 春の苦味




山梨県の白州町に暮らしていたとき、春の始まりのこの季節は種まきの季節でもあるが、
秋に収穫して保存しておいた野菜などがなくなり、今日食べる野菜が少なくなるってくるので
台所を与る女性陣たちはかごを持って、野山にでかけ食べられる野草を摘みに出かけた。
ヨモギ、セリ、たんぽぽの葉、湧水に群生するワイルドクレソン、
種が飛ばされて偶然育ったアスパラガスを見つけた時はほんとに小躍りした(笑)

セリには水場に生える水ゼリと野に生えて黄色い花を咲かせる野ゼリとあるが、
野ゼリは食べられないので、田端などの水辺にある水セリを探して摘んだ。
サラダやおひたし、みそ汁の具、煮物の彩りにとよく食べた。

野草は口に入るまでにそれなりの下処理をしなければならない。
水ゼリも野生のクレソンも、根についた泥をよく落とすのに時間がかかった。
だから、毎日食べる分しか摘まなかった。たくさん摘んでも、泥を洗い落とすのに
たくさんの水と時間を使うし、摘んだ日に食べないと美味しさは半減してしまうからだ。

畑でとれる野菜や豆、米もそうだが、野草のように天と地から頂く自然の恵みには、
お金はいらないが、調理されて人の口に入るまでには、きちんと手順をふまなくては
ならないし、手間暇がかかる。午前中に摘んだ野草が食卓にあがるのは夜だ。
山の恵みの山菜やタケノコはもっと時間がかかる、洗って茹でて灰汁を抜いて初めて
それが植物から食物になるのだ。だからこそ美味しいのだけれど、その手順はひとつも省けない。
(掘りたてのタケノコは稀に生でそのまま食べられます。)

今ではセリもクレソンもほんのスーパーの野菜売り場で、
花束みたいにセロファンにくるまれたものにしか出会いなくなってしまったけど、
白州の湧水に群生する野生のクレソンを初めて見つけたときも、
秘密の聖地に足を踏み込んだような気持ちになったものだ。
それまでの私の知ってるクレソンといえば、ハンバーグやステーキなどの
肉料理の端っこにう添えられてる、緑色の草ぐらいなものだったから。

思い出話になってしまいそうなので、話を今にもどそう。
山梨白州町の旅は今から18-19年前のことだからね。

東京、都心の桜が突然、満開になったのが、昨日2011年4月6日(水)
世田谷の桜は満開というほどでもなかったけど、5分-7分ぐらいは咲いていた。
昨日は桜だけでなく、椿、こぶし、木瓜、道端のスミレ、花という花すべてが咲いてた。
そして、今日は2011年4月7日(木)花曇りで明けた朝、
どうやら明日からは雨雲が広がり、週末にはまた放射性物質を含んだ雨が降るらしい...orz。
あぁ、春のこの時期の雨は花散らしの雨ではなく、花がより大きく咲くための恵みの雨だったのに
放射能が...(以下悲しくなるので割愛する)

ということで、また今日のうちにヨウ素やセシウムが検出されていないらしい?
東京の(いちおう浄水器を通す)水道水で、残り6つとなった水俣から届いた今年最後の甘夏を、
人生の折り返す前、最後の日に甘い甘い砂糖漬けピール(2度目の挑戦!)にして、
40年分のビタースイートを封じ込め2011年の春を忘れないために、保存しておこうと思う。

    ↑これは一昨日試しに初めて作ってみた甘夏ピール。
           母の持っていた昭和のジャムと保存食の本のレシピを
           参考に作ってみた。一齧りすると気が遠くなるほどの
           刺激的な甘さにくじけそうになったのでリベンジ!
今日は刺激的で官能的でも控えめで奥ゆかしく
  酸いも甘いも知り尽くした大人の味を目指すわ!

Wednesday, April 6, 2011

TULIP WATER 3 水と甘夏の日々



            写真は↑甘夏をトッピングした
            バナナとアボカドのロゥチョコムース。
                          
                
あっという間に4月の新月も過ぎ、地震からもうすぐ4週間が経とうとしている。
そして、とうとう、その水は海にまで流れ出してしまった。

その後、東京の水道水はどうなんだろう?
ヨウ素やセシウムなどが検出されなくなったとも言われているが、雨が降ればまた検出されるだろう。
蛇口から風から、そして海から放射能物質が流れてくることを
常に念頭に置かなければならなくなってしまったのだ。

我が家に水俣から届いた甘夏は、頭じゃなくて、食べるまで玄関先に置いておいた。
この黄色い果実たちが家の中をいい香りにして癒してくれている。
なんてすがすがしい香りだろう!

こんなときに(東京の水道水にヨウ素が検出されたとき)マーマーレードを仕込むなんて?と、
少しためらったが、水俣の皆さんが大変な思いでここまでやってこられて、こんなにピカピカな
果実を育てて、それがめぐりめぐって我が家に届いたのだ、私はこの甘夏たちを無駄にすることなく
美味しいマーマーレードに仕上げなくては!?と、まだ余震が続き、自分が揺れているのか?
大地が揺れているのか?自分の中心軸を失ったままの状態だったが、今、私にできることを
しよう!と、甘夏マーマーレードを仕込むことにした。
果実と砂糖だけで作るジャムなら、問題はなかった。
そう、マーマーレードは皮を使うのだ、だから美味しいしジャムではなく
マーマレードというそうだけど、皮を仕込むには、大量の水がいるのだ。
マーマレードはそれで味が決まってしまうといってもいいぐらい、
皮の丁寧な下ごしらえがポイントなのだ。

マーマレード作りは、まず果実を丸ごとよく洗い、
皮と身と身が入っている袋(甘皮)に分ける。
身は袋から出してスジなどもきれいに取る。
身が入っている袋も(フードプロセッサーなどで)細かく刻んで使う。
これはマーマレードを煮る時、仕上げのペクチンになるのだ。

皮はスライスして、水から茹でて沸騰後も20分ぐらい茹で続ける。
20分下茹でしたものを、ざるに上げて洗うように水にさらすこと5分ぐらい。
そしたら、よく絞って水気を切る。私のマーマレード師匠のレシピでは、
5分さらして絞り、また5分さらして絞り、、と、この作業を3回繰り返す。
どれだけの水が必要だろうか?皮だけで約1.5kgある分がたっぷりと
浸るほどの水と、洗い流してさらす水、、何リットルの水が必要だろうか??

私がマーマレード作るのを一瞬ためらった理由はそこにあった。
もちろん、ミネラルウォーターなど使えないし家に備蓄していない。
そのまま食べるわけではないにしても、乳幼児に飲ませられないような水で
この甘夏を仕込む気にはなれなかった。

地震後、我が家は母が予ねてから買いそろえてあった非常用グッズの数々に驚いた(笑)
水もトイレや庭先、ベランダに非常用としてペットボトルに何本も蓄えてあったのだ。
さすがにトイレや庭先の水は..だったが、台所にも数ヶ月前に汲んで保存してあった
2リットルのペットボトルに入った非常用水があった。
そうだ!今を非常時と言わないで、いつを非常時というのだ!
とはいっても、非常用の水で自家製マーマーレードを作れるなんて、
なんとしあわせなことだろうか?その間にも何度も余震はあったし、福島原発はさらに
最悪な状況へとむかっていたんだけれど、

『たとえ、地球が明日滅びようとも、君は今日りんごの種を植えるだろう』

寺山さんの映画「書を捨てよ 町に出よう」 マイクの映画「鉄コン筋クリート」に出てくる、
このポーランドの詩人ゲオルギウの詩の一片が頭に浮かび、

たとえ、地球が明日滅びようとも、私は今日マーマーレードを仕込むわ!
と、心に決め、瓶を熱湯消毒し脱気をすれば半年は常温でも半年は保存できる
このマーマーレードを、未来のある子供たちにこそ食べてもらいたい!と、そんな思いで
汚染された水を使わず、地震前に汲まれていた東京の水道水、もう戻れないきれいな
過去の水道水でこの皮の下準備をすることにした。http://1.bp.blogspot.com/-XD7dt8WZ_2k/TZVqzfnEpfI/AAAAAAAAAO4/zy9Qm7sMgZ0/s1600/%25E3%2583%259E%25E3%2583%25BC%25E3%2583%259E%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2589%25E6%25B2%25B3%25E4%25B8%258B%25E3%2582%2586%25E3%2581%25A7.JPG

再掲↑スライスした皮をこれから下茹でするところ。

                

Friday, April 1, 2011

TULIP WATER 2

水俣の生産者グループ その名も “ きばる ” さんから
1か月以上前に今年もマーマーレードを作るために
注文しておいた甘夏が10kg届いた。地震から2週間後のことだった。

残念ながら東京の水からもヨウ素が検出される。
乳幼児に水道水を飲ませないように通告が出てしまった。
              
米の次はミネラルウォーターが店からなくなった。
乳幼児がいる家庭には区からペットボトル入りの水が配給されるという非常事態が起こった。
水を配給されるのは?1歳未満だけなのか?
幼児は?母乳を飲ませてる母親は??
              
予感というのは、自分の意志や想念とはちがうところからやってくる。
毎朝ぼーっとシャワーを浴びながら、『この水は...いつまで大丈夫なのだろうか?
いつまでこうしてシャワーを浴びていられるのだろうか?
 
寝ぼけて見ていた夢の続きが、正夢になってしまった。



              
          




              
              

              



Wednesday, March 30, 2011

TULIP WATER 1

A Flower Will Bloom in Your Garden.


それでも、わたしは毎日シャワーを浴びている
いま世界はひっくりかえってしまったというのに...
それでも、毎日こうしてシャワーを浴びているんだ

毎夜悪夢と寝汗とで、干からびた身体に潤いを与え

自分ではどうすることもできない皮膚バリア機能を補うために
保護膜をつくるために、保湿クリームと傷口を塞ぐ薬を塗る

そうして、やっと人間らしき生物になって1日が始まる
今日もそうして、1日が始められたことに感謝する
ありがとう そう唱えて朝陽にむかって祈る

そうして、やっと今日も人間になることを許される
命をつなぐ水、乾いた心と身体に潤いと力を与えてくれる水...


TULIP WATER 1 

アトピースキンケア治療と言えば、健全な(?)衣食住とストレス対策など
言い出せばきりがないほどあるけれど、基本的には、毎日肌を清浄し
清潔を保ち、
薬または保湿クリームを塗って肌の乾燥や防いで、傷を保護して治す
ことである。
これは病院に入院してする治療ともまったく同じで、入院しても毎日決まった時間に
シャワーを浴びて全身に薬を塗られる、時にはガーゼや布をあてられ包帯で巻かれる、
そんなもんなのであるが、いかに肌の清潔を保つことが大事か?=シャワーを浴びることが
大事か?シャワーを浴びることができなくなると、それはアトピーさんには命取りだったりするわけで..

だから、日本が、世界が、ひっくりかえろうとも、もう取り返しがつかないギリギリのところまで
来てしまっていても、私もギリギリだったので、余震が来るのも覚悟して、毎朝起きるとまず
全身から舞落ちる麟粉をはらい、まずはシャワーを浴びて目覚め、保湿クリームを全身に塗り
やっとどうにか、干物が水にもどるように、人間らしき生物になって朝が始まり、窓を開け、太陽を
確認し、スズメや鳥の声に耳を澄まし、ようやく、祈ることができる。

それが3.11以降の朝の儀式になった。

地震以降、まずはじまったトイレットペーパーの買い占め。
我が家はたまたま生活クラブから届いたばかりだったので、
買い占めることも不足することもなく事なきをえた。

トイレットペーパーがなくなったら、アフリカ式に『水』でいいんじゃないの?
アフリカなんかそもそもトイレットペーパーなんてないし、
あの塩化ビニール製のカラフルなヤカンに入った水で、手で洗う方式、
まさにお手洗いな、『水』でいいじゃん!なんて、
(私はそんな暮らしを経験したことだってあるから大丈夫よ!と、)
軽口を聞いたが、それも『水』あってのことだよなぁ...少し気になりはじめていたんだ。

トイレットペーパー同様、東京でも一時期、
生理ナプキン等生理用品がドラッグストアから消えたそうだ。
そういえば、家の隣のコインパーキングから、「ナプキンがなかったから
タンポン買ってきたわー」なんて大きな声で話してる女性の声も聞こえてきて、
あ、ほんとにナプキンも買い占められてるんだなと知った。

被災地からの不足している救援物資情報にも生理ナプキンというのもあったし、
Twitterでは、非常用の生理ナプキンの代用として、いらなくなったカットソーなどの袖口を
再利用して簡易布ナプキンにする作り方ツイートがタイムラインに並んでいた。
So, 奇しくも地震はスーパーフルムーン前の週、地球も女性だというけれど、
ならばあの地震はPMS?それともスーパーへヴィーデー??
あの頃、生理前後だった女性は多かったはずだ。
地震後の満月に向かう1週間は、まさに私もPMSからムーンタイムになって、
より全身を清浄しなくてはならない日々だった。
毎朝、不安と緊張と寝不足とでぼーっとした頭と身体を起こすように、
熱めの湯を流しかけている、湯水のごとくとはこのことだなぁ、、
こんな日をいつまで続けられるんだろうか?と、
人生初の非常事態に、直感が、本能が、もうすでに気がついていたんだ。

この不安と緊張感の中、生理がくる。
アトピーが少し悪化する、デリケートゾーン(自律神経エリア、わきの下、ソケイ部、外陰部、等々)
が痒くなったり、変な汗をかいたりして、さらに肌が敏感になる。いつも通りに布ナプキンを使う。
というか、もう下着もそうだけど、オーガニックコットンの布ナプキンしか使えない身体になっている。

布ナプキンを洗うにはたくさんの水を使う。
経血は、血液なので水でしか落ちない、バケツに貯めた水で
まずはつけおいて、それから無添加せっけんなどで洗うのが
布ナプキンの洗濯だ。経血が流れた水を大地にかえすというのが
エコロハススタイルだけれど、そんなにたくさん流せる大地があるわけでもなく
せっけんで洗い流した水は、大地(といっても庭)には流せない。
とにかく水をたくさん使って洗濯をしなくてはならないのが、布ナプキンの特徴でもあり
弱点なのかも知れない。毎月、つけおきしたバケツの水をじゃぶじゃぶと流して我から
はがれおちた経血を洗い流すたびに、思い出す友人の言葉がある。

「布ナプキンは、水のないところでは使えないんだよ。」

そう教えてくれたのは、アリゾナの居留地でネイティブアメリカンのダンナさまと
暮らしていた友達だった。彼女もアトピー体質、日本では有機木綿の手つむぎなども
していた人だ、布ナプキンの心地よさだって熟知しているだろう。
そんな彼女のその一言(パンチ)は、効いた。今でもずっと忘れられない。
きっと、彼女にしたらそれがアリゾナでの常識だから、
何気なく言ってくれたに会話だったのだろうけど、
その一言が、なぜか私には忘れられなかった。

たしか、アースデーで偶然会ったときのことだ、
布ナプキンブームが来ていた、売ってるお店も多かった。
私もちょうど、使い捨てナプキンから布ナプキンに切り替えて
1年ぐらい経っていたころだろうか?人に布ナプキンを薦めたりもしていた。
ゴミにはならないし、エコでロハスではあるけれど、それは蛇口をひねれば
出てきてくれる安全な「水」あってこその話だ。たしかに布ナプキンは快適だけれど...
それを知っていても使えない場所だってあるのだ。この心地よい暮らしは「水」や
ライフラインがそろってこそ、成り立ってるわけで、そんな状況が当たり前ではないことが
世界には、地球上にはまだまだたくさんあるのだということを思い知らされた。
思い出させられたというのか?

地震直後の生理、そして、布ナプキンの洗濯と日々の
スキンケアのためシャワー何もできなかったけど、「水」を使うたびに
この水は...(いつまで大丈夫なのだろう??)
言葉にならない不安のようなものが浮かび始めていたんだ。













Monday, March 21, 2011

311のこと 友達へ宛てた手紙

           



地震は大丈夫でしたか?
ご家族の皆さんも大丈夫でしたか?
お見舞いのケーキどうもありがとう。
お礼のお礼メールが遅くなりました。

あの日、私は断食明けの経過報告と
薬の処方診察に飯田橋の漢方医院にいました。
屈強な建物の中だったので、揺れたときは
そんなに怖くなかったけど、揺れないから
院内の人たちはさほど心配してなくて、
それから、医院を出て、あまり馴染みのない
飯田橋駅でもちろん電車はとまり、大きな余震で
立ち往生でした。駅のテレビはNHKだったけど、
東京の情報がまったくわからないまま、余震におびえていました。
とりあえず暖をとろうと駅となりの頑丈そうな合同庁舎ビルの中の
カフェに入り、カフェの人たちは気丈に働いていた姿が感心でした。
それで少し気持ちが落ち着いて、温かい飲み物と椅子を確保して、
電話としてはまったく機能しなかったiPhoneでしたが、
ネットはバッチリだったので、周囲の人たちと情報を分け合い
励ましあったり、つながる電話を貸してもらったりしながら様子を見ていました。
電車が動かないとわかり、夕暮れも近くなってきたころ、
人の流れが変わって、雲っていた空が晴れてきた瞬間に
『日が暮れる前に歩こう!』と動物的?な勘がもどってきて、
飯田橋は知らないところだけれど、いつも市ヶ谷まで歩いていたときに
新宿方向の標識をみてたので、まぁ、新宿まで出ればなんとかなるだろう!
と、歩き出しました。狭い歩道は民族大移動!自転車屋さんに長い列ができてたのは
お財布に余裕がある人たちは、自転車を買ってそれで帰ろうとしていたみたいでした。
まるでラッシュアワーみたいな道の混雑ぶりでした。流れに身を任せると赤信号も
気づかない!ヤバいなーと思いました。薄着で出かけてしまったんだけど、
たまたまジーンズにコンバースを履いていたのが正解でした。
コンバースは地下足袋みたいだった(笑)

飯田橋→市ヶ谷→防衛省→曙橋→新宿御苑→2丁目
昔2丁目の69やGardenで夜遊びしていて電車がなくなって、
タケちゃん家までみんなで歩いて泊めてもらった道でした。

新宿で明治通りに出て『渋谷区』という標識を見たときはすっごいホッとしました。
初台の方へ出て246という道もあったみたいだけど、
車が通る道の歩道は狭いし人も多いし道順がよくわからないので、
いつも散歩してる道を目指して、明治通りを原宿目指して歩きました。
新宿→北参道→昔カレー屋Geeがあった辺り→東郷神社→
原宿のラフォーレ交差点が見えたときには、『あぁ、もう大丈夫だー!』と
ものすごい安心感(笑)に包まれました。

渋谷に出れば祖師谷大蔵行きのバスが動き始めたという情報もあったけど、
新宿まで歩いてるときの車道のものすごい交通渋滞とバスの混雑ぶりを見ていたので
今さら何かに乗る気にもならず、道も人も混んでるだろうと、
そのまま明治神宮から代々木公園へ入りました。
夜はとっぷりとくれて、空のてっぺんには上弦の月。
月が見守ってくれてるようでした。何度も見上げた。
誰もいない代々木公園の噴水の手前で公園を出て、富ヶ谷へ抜ける道を下り
代々木八幡を目指しました。この道は私のお気に入りの散歩エリアで、
いつもなら代々木八幡から小田急線に乗るところだったけど、
もちろん小田急線も動いておらず、ツイッターでみんなに励まされながら歩きました。
民族大移動の中にいたときは一生懸命歩いてたから、寒さも空腹も忘れていたけど、
代々木公園で1人になったとき、鼻水が流れているのにきがついて(笑)
唯一もってた食料ののど飴を舐めようとしたら、ポケットから飴を出して
袋を開けようとしても、手が寒さでかじかんで動かず、飴の袋を破くこともできない。
それほど身体は冷えきっていたみたいでした。疲れてるんだななと我に返りました。

歩き続けた間も電話はつながらなくても、
ツイッターでみんなが情報や励ましメッセージをくれて、友達が代々木八幡に
その友達の友達がやってるいいお店(カレー屋)があるからそこで休んで!と
メッセージをくれたり(嬉しかった!)そこは場所もわからなかったんだけど、
偶然にも代々木八幡から代々木上原へむかおうとした瞬間にそのお店が目の前に
現れてびっくり!地震の夜で閉めてるお店も多かったのに、そこには温かい灯りが
あって、迷わずドアを開けて階段を上ってお店にいれてもらいました。
カレーが美味しくて有名なお店で、メニューのホットワインの誘惑に負けそうだったけど
いま、ここでホットワイン飲んじゃったらこの先歩けなくなるな!?という直感と理性に
とめられて、美味しいベジーカレーを頂き、そのお店を教えてくれた友達からの連絡も
あって、はじめて会った人たちだったのに、おしゃべりが弾み、地震から今までの
緊張がいっきに解れて、ひとときの和やかな時間を過ごし、奥様に心づくしの
デザートまでサービスして頂いて、空腹だけでなくiPhoneの充電までさせてもらって、
やっと家族ともメールが通じてひと安心。そのまま楽しい週末の夜を過ごしたいところ
だったけど、まだ家までは7-8kmは歩かなければならない中間地点。さぁ!と腰を上げて
店を出て、代々木上原からモスリム寺院東京ジャーミー右手に拝み井の頭通りを北沢方面に
歩き続け、下北沢一番街へつながる裏道に入って、世田谷区入り。
下北沢まで出ればもう庭のようなものなので、それからは
いつもの道を小田急線に沿ったり裏道抜けたりしながら歩いたの。
夜はとっぷり暮れて風もつめたくなってた。
さすがに環八を越えて砧、祖師谷に入ったときには膝が笑ったよ。
飯田橋を5時ごろでた時、家につくのは10時だな?と、帰巣本能が予測をした通り、
途中思いがけないカレー屋さんとの嬉しい出会いと休息もいれて、
約5時間の避難歩行となりました。決断したのが夕暮れ前で正解だった。

あとひといき遅かったら帰宅難民になるところだったし、
あまり慣れない飯田橋付近で帰宅難民になっていたら、
情報も少ないし避難所が開いたのも遅かったから、
もっと戸惑っていただろうなと、、
空の色やお月様を便りに歩いてよかった。
これは私の中の思考じゃないお腹のあたりにある中心軸が
決断してたように思ったよ。私、絶対帰れる!ってね。

歩いてるときは余震には気がつかなかったし、
テレビなどのメディアの情報は入らないから
家についてから、ホッとしてまたお腹が空いて、
もういちど温かい夕食をとってから、
テレビをみて事の大きさに怖くなって
疲れているのにまったく眠れない夜でした。

以来、節電したり家族がまとまったり、
穏やかに暮らしているのだけれど、我が家には91歳と89歳の病弱な
年寄りが2人いて、(父は職場の障害者の方々のグループホームを見なくちゃいけないし)
母と私がこの年寄りと老猫をなんとかしなくちゃ!という責任とか、
どこからくるのかわからない不安と緊張で身体がガチガチで、
眠れない日が続いてます。最近、やっと、というか、
もう疲れちゃって眠れるようになりましたが寝汗が酷いの。
バランスが壊れてるんだろうね。高熱を出した時みたいな
寝汗をびっしょりかいてる。でも、少しスッキリするんだけど。

テレビやラジオの情報はほとんど入れないようにしてます。
耳を澄まし、空の色と朝夕飛んでくる雀や野鳥の鳴き声、
これはもうずっとだけど、月の満ち欠け、そして、何より
自分の身体の感覚!これを信じて、風の伺い生きるようになってきました。

思えばちょうど一ヶ月前から脱ステロイドの強いリバウンドが始り
顔は腫れ上がり熱も出て、皮膚呼吸はできず、身動きも取れず
泣きたくなるようなリバウンドの日々が始りました。
3度目の経験とはいえ、何度やってもこれは辛い!

だけれど、Chiho-chan&Kan-chanからのお見舞いメールや
ケーキの贈り物や、ツイッターで同じ脱ステロイドを経験をした人の助言とか、
いろんな人の力の助けで、過去に3度(1年ぐらいかかったこともあったけど)
復活して元気になった!という自分の自己治癒力も信じて、
そこだけはぶれないように何が起こっても、途中で塗り薬(非ステロイド)の
選択を失敗して悪化しても、それも過程だと受けとめるようにしながら、
なんとか心乱れないように、痒くて眠れないときは瞑想をしたり、
少し掻いても落ち込まないようにしたり、眠れない日々をなんとか楽しいことを考えたり、
引きつる肌を引きちぎるようにストレッチをしたり…
ちゃんと毎日清潔でいられるようにこまめに布団の掃除をしたり、
自分の為に除去食や断食食を作ったり、日常の身の回りの生活を
とにかくキープしようとがんばりました。
もう自分で言っちゃうけど、ほんとがんばったんだ。

見た目、肌の表面的には酷い状態だったけど、
内側は今までにないぐらいとても落ち着いてた。
落ち込まずにいつも前向きだったし、私は再生できる!と信じてた。
自信がもてるような取り柄もなにもないけど、今回はこれだけは
確信していたのが、3度も繰り返して40歳になったからかな?
と、思ったよ(笑)
いちばん顔が腫れ上がって、リンパ液が流れ出てたときに
なんとか飯田橋の(地震に遭う3週間前の診察)
漢方医の先生の所まで行って、診察を受けて断食の相談をしたら、
『肌はいっきに薬をやめたから悪化してるけど、
今のあなたには目に力があるから、断食も大丈夫でしょう!』と、言ってもらった。
私の表面じゃなくて中をちゃんと先生が診てくれたことが嬉しかった。
だけど炎症が酷い時の寒い日に電車に乗ってでかけたから、
そのあと熱出しちゃったけどね(笑)

そしてカロリーを減らして食事制限を始めた断食週も毎日症状が変わって、
食欲の煩悩も爆発したけど(笑)食べるということを考え直す機会になった。
3日間の断食中は過去に3度経験した脱ステロイドリバウンドの症状が
まるでダイジェスト版みたいに毎日出て来て、今回の脱ステも
3ヶ月ぐらいはかかるだろうと覚悟していたんだけど、
断食中にみるみる回復していって、リンパ液がとまり、
なんとか外にも出られるようになったりして…
まだ見た目は酷いものだったけれど、それでもそこまで酷くなると、
毎日の小さな回復の変化が嬉しくて、ほんと初めての人が見たらびっくりするほど
酷い顔だったけども、それでも家族にも自分にも明らかに
よくなっている変化が見えてたの。

顔が酷い時って、変な人も寄ってくるから
断食中用の三年番茶を買いにでかけた自然食品点では、
久しぶりに、ねずみ講&信仰宗教的な化粧品をすすめられたり、
ツイッターで知り合った業界風の人には(初めは感じよかったけど)
親の愛が足りないだとか、あなたのコンプレックスを克服しなくちゃ治らないとか、
わかったようなこと言われたり、こういうエピソードもダイジェストでやってきた。

今までこれで何度も挫けて揺れてきたことだったけど、
その瞬間には反応してしまって感情的になって乱れたけれど、
すぐに受けながせるようになってた。揺れなくなった。
人は再生できるんだと、私はそうして何度も再生してきた、
生きてるかぎり人は再生できるんだ!という強い力のようなものが沸いてきて
私の中心軸になっていることに気がつきました。

いま、放射能の被害が言われてるけど、
私のステロイド薬害と似てる症状がずいぶんある。
被爆白内障と私のアトピーステロイド白内障も症状は
ほとんど同じに思える(いつでてくるかわからないから、
被爆じゃないですよ、とか、ステロイドのせいじゃないとか
医者にははぐらかされるけど)皮膚の色素沈着もバリア機能の低下もだし、
ケロイドにもなる。遺伝子のダメージは違うかもしれないけど
ステロイドで腎臓も弱る。私は40年たってその薬害が目にきた。
昨秋見えなくなって手術したのは右目だけど、いま左目も進行中。
医者は自分で引っ掻いたのが悪いというだけ。悔しいけど
もう仕方ないなという感じ、諦めて受け入れた40歳の夏でした。

弟も昨夏、疲労で倒れて入院して以来薬漬けの日々、ステロイドも内服させられた。
弟も知ってると思うけど、私と同じで生まれつきのアトピーで、
身体が強い分、私よりステロイドやプロトピック軟膏とよばれる新薬(劇薬)を
使っていた期間が長く、その影響もぜったいあって入院してからは検査検査の日々。
CTスキャンに放射能検査(放射能を注入されて被爆させて病気がある場所をみつける
とんでもない検査)をされたりしても、結局まだ病気の原因がわからず、
今頃になって過去に使われた薬を全部調べられてる。
弟がなんでずっと検査攻めかというと、脳梗塞になって倒れていても
おかしくないほどの数値なのに、退院後はなんで元気なのか?ということみたい。
驚異的というか強運なのか?無理ができてしまう身体だったそうなんだけど、
タバコも吸っていたし、さすがにそれも限界がきたようで、年齢もあるし、
弟もライフスタイルを見直すときだったんだとは思うけど、
それにしても病気の原因を究明するまでの、その薬漬けの入院の日々は辛そうだった。
半分は健康管理の問題だけど、半分は薬の副作用でどこか症状を抑える為に他がやられる。
なかでもステロイドの副作用はいちばんキツい。
もうこれ以上、不自然なもので身体をやられたくないよ。
私たち姉弟は産まれて間もないころから、当時は臨床例も少ないし
アトピー性皮膚炎なんてまだ珍しかったから、治療法も研究されてないから
バンバン強いステロイドを処方されては、診察の度に写真撮られてた。
ある病院では、こんなに酷いの見た事ない…と、医者に言われたこともあったよ。

放射能の感受は30〜40歳を過ぎるとぐんと減るそうだけど
もうすでに薬害を受けてる身としては、正直ジタバタしても仕方ないと思ってるところがある。
子供ももう産む機会もなさそうだし、なんかあきらめがついてきた。
今はパートナーもいないしね。
妊婦さんや未来ある子供は絶対逃げたほうがいいと思う!
ほんとにまっ先に安全な場所へ逃げてほしい。それを願ってる。
輝く未来に辛い思いはさせたくないからね。

私も放射能被曝には、もちろん気をつけたいし身体には取り込みたくない。
玄米や海藻、大豆、ちゃんとした塩、昔ながらの製法で作られた味噌や醤油、
砂糖をとらないといったマクロビの基本、伝統的な食事で
ずいぶん身体は守られるそうだし、それならもってこいの食事なので、
できることをしようと思ってる。いいときに食べる事を考え直す断食を
してよかったなと、すごいタイミングだったなと。

たまたま断食明けの総決算にと、地震の前に観に行った『ありあまるごちそう』
という映画で、地球を蝕む食品ビジネスが小麦と卵(鶏、ブロイラー)と牛乳(牛肉、家畜)と大豆(アマゾン破壊、遺伝子組み換え)だと改めてわかって、大豆はともかく、
私の身体が悪くなるものと、大量に非人間的に生産されて破棄される食品
(小麦、卵、牛乳)とが、まったく同じだということ、
これらの食品に反応してる自分の身体と世界を地球を蝕んでる状況が
つながってるのがわかった。小麦も卵も牛乳も正しく生産されたものを
適当な量食べる分にはアレルギーなんて起こらない。
私はちょっと小麦食べ過ぎてたことにも目が覚めた。
それで、アレルギーというわけではないんだけど、
食べ過ぎを改めるために、小麦抜きをはじめていたの。
まったく食べないということではなく、断食を機にいちどリセットという感じね。

Chiho-chanの特製スチームケーキ、
今日20日午前3時に満ちた
20年に一度とも言われるスーパーフルムーン(地球にいちばん近い場所で月が満ちる)と
春分とお彼岸が終わる頃に、地震も収まっていてほしいという願いもこめて
春分の区切りの日に、冷凍庫から出して翌朝に食べるのが楽しみなんだ。

地球を女性と例えるなら、解毒と浄化のムーンタイム(生理)も
きっとこのスーパーフルムーンを前後して、地震も落ち着いてくれるだろうと
信じていて、私の生理も(アトピーが悪化することなく)
無事満月前に終わったので、それと地震が落ち着くのではないか?
という期待もこめてね。(でも、また揺れてるね、そうだよね、そんなに
クッキリハッキリはいかないよね、揺れながら、バランスをとっていくんだろうね?)

身体が強ばっていて、なかなか熟睡できない日々、熟睡から目覚めた朝に
Chiho-chanケーキを私と地震後の回復のお祝いに、よくがんばった
ご褒美に食べるのだ!ほんとに私って食いしん坊だな(笑)
食べるために生きるんじゃないよ、生きるために食べるんだね。
いただきます。と、命を頂いて、私たちは生きてるんだよね。

地震以来、被災された方々には申し訳ないような気持ちになるけど、
毎朝、こうして美味しいコーヒーを飲める幸せや、
(まだ不安はあるけど)自分の部屋で温かい布団の中で眠れる夜を
心から感謝するようになりました。何か大きな力に生かされてるんだなと
ありがとうの気持ちでいっぱい。

長くなっちゃった。

誰かに聞いてほしかったんだ。

PS
Sは地震後の月曜日に
なんとか旅立ちました。いつも離ればなれの
夫婦ふたりの2週間のバケーション。
無事飛行機が飛んでくれてよかった。
今頃、温かい西の彼国から
日本のみんなの無事を祈ってくれてるはずです。
28日にはかえってくるそうなので落ち着いたら、
いっしょに遊びに行きたいです。
もうきっとお土産話がとまらないだろうね(笑)
みんなで再会できる日を楽しみにしています。

読んでくれてどうもありがとう。

生き延びましょう!

May the Great Spirit's Blessings Always Be with Us!!
Dear my friends Kan chan and Chiho chan (♡;♡)/

木瓜子

※写真は忘れられない夜の代々木八幡のじゃが豆カレー

Wednesday, March 16, 2011

The day before 3/11/2011

もう約一ヶ月前になろうか?
2月22日(火)ちょうど脱ステロイドリバウンドが始った時のこと。
風に当たっても痛い顔、全身ピリピリで動かせない首、上を向けない顔、
帽子にサングラスにマフラーを巻き、小田急線と総武線を乗り継いで、
なんとか辿り着いたのが飯田橋の漢方医院だった。
総合病院での薬を切り、頼れるのはそこだけだったのだ。
診察室に入って帽子とサングラスをとると、小鼻やオデコから
ドクドクと例の滲出液(黄色いリンパ液)が流れはじめた。
いいタイミングでの診察となった。週末からこのような状態で断食をしてもいいか?
と、先生(同年代でアトピー持ち)に聞いてみた。
すると先生は『炎症は酷いが、目に力がある!』と。
素直に嬉しかった。

これだけ見た目に酷い状態の顔をしていたのに、先生は表面じゃなくて
ちゃんと見ていてくれてる!塗り薬の相談も、先生ご自身がアトピーなので、
総合病院で処方される非ステロイドのワセリン系軟膏についても話しが早くて、
それについては、先生と患者というよりアトピー同士の意見交換という感じで、
軟膏や保湿クリームの使い方について話しができた。先生はS皮膚科医の保湿クリーム
で、ほとんどカバーしているそうで、ただ傷にはしみるし、塗った後に痒くなることも
あるその保湿クリームの特徴をよくとらえていて、逆にしみさせて痛くして掻かない!
というなんともM(笑)的なやり方で日に2度その保湿クリームでケアしてるのだと。
これはアトピー同士でないと成り立たない会話だったのが笑えた。
痒さを堪えるか?傷みを堪えるか?どちらにしてもMだよね(笑)
これであの非ステロイド、ワセリン系軟膏とも決別することができた。

この後、このとき処方された漢方煎じ薬と、
脱ステリバウンドと小麦抜き、そして断食と続いていったのである。

Sunday, March 6, 2011

My life as Atopy 2 Medical Record


断食明けて間もないのに調子に乗って、
スタバでソイカプチーノ飲んだら胃散が上がってきた。囧rz
これが気をつけなくちゃいけないことだったんだよな。
わかっていたのに、ついムードと久々の外出に浮かれちゃったんだな。
相変わらず修行が足りないなあ。

ま、もう飲んじゃったんだから、
胃袋さんにがんばって受け入れてもらうしかない。

これは塗り薬と同じ。
脱ステロイド真っ最中、リンパ液が流れてきたときに何を塗っていいかわからず、
とりあえず非ステロイドのワセリン系軟膏を塗って、明らかに悪化した。
おかしいな?と、疑心暗鬼だったのにもかかわらず、
ほかに塗るものがなくて、何塗っていいかわからず、とりあえず塗ってみて
効果をみて対策を考えようと、脱ステに苦しみながらも人体実験の日々。
漢方医さんとツイッターで同じ脱ステロイド経験をしたことがある方からの
メッセージとアドバイスで、今まで非ステロイドだから大丈夫!と、
処方され続け半信半疑ながらも他に代わるものを
見つける時間も手間もお金もなかったので、保険が効いて処方されるままに
使い続けてきたワセリン系軟膏とも決別した。脱ステ&脱ワセリン

アトピー肌には保湿は常套句。
確かに普通の乾燥肌の人よりさらに乾燥していて、
鱗粉が舞い飛ぶけれど、それでもこんなベトベトしたものを
一生塗り続けなくてはならないなんて、理屈では正しいのかも知れないけど、
実際塗ってる人にとって(これは私の個人的な感覚かも知れないが)
あれは一時的にはありだけど、傷のない肌には毛穴をふさがれる感じがするし、
油分で無駄なニキビができるし、決して心地よいものではない。
今ではサンスクリーン効果や、より精製されてなめらかになってるものもあるが、
結局は植物性由来のものが配合されていても石油化学製品なんじゃないか思う。
成分由来を詳しくしらべたことはないが…

そうだ!保険の利く医者の処方の薬には薬効と副作用の説明はあっても、
成分の説明はないんじゃないか?それもおかしいよな?
化学薬品だから、素人に説明しても仕方ないのかも知れないのか??

しかし、ステロイド軟膏だけでなく非ステロイドの軟膏にまで落とし穴があったとは⁈

ふりかえれば、これらのワセリン系軟膏もステロイドを
薄めて混合軟膏を作るための溶剤のようなものなんだと気づいた。
ここ10 年ぐらい信頼してきた近所の皮膚科クリニック(突然閉院した)の女医さんが
何種類かの軟膏を私の症状に合わせて混合して処方されてた混合軟膏を
よく効く非ステロイド軟膏だなと信じて、使ってきた。
で、あるとき、処方の際に貰うお薬手帳用の説明シールを見て、
そこに弱いステロイド軟膏がブレンドされてたのを知った。
どうりで、効くわけだ。
ただ、この混合軟膏は私の肌にあっていたのか?
その女医さんは近所でも評判の患者の話をゆっくりと聞いて
その患者の性格と体質にあった治療と処方をするので、きっと
私の性格を見抜いて、私が最近のアトピー治療のトレンドは「ステロイドも使いようなのだ」ということを理解していたから、何も言わずにその時の最善の処置として、
微弱ステロイド混合軟膏を作ってくれていたのだろう。
たしかにその混合軟膏は1日~2日塗ればよくなった。
医者は保湿のために塗り続けろとはいうが、
私は基本ズボラなのと面倒くさがりなのと薬が好きじゃないので、
塗ってよくなれば、すぐに止めて自分のお気に入りな自然派スキンケアなどに
すぐに切り替えてしまって、塗り続けなかったのがよかったのか?
ステロイド依存にもならなかったし、表立った副作用は見られなかった。
内臓はどうだか知らんけど。

これはたまたまだったのか?肌の本能がそうさせたのか?
そのズボラで面倒くさがりな適当さが役立つこともある。

にしても、そのワセリン系軟膏は長く使っていた。
おそらく物心つくまえから使っていたんじゃないかと思う。
もう記憶も遠いが、私が生まれた病院の皮膚科には生後2ヶ月から
私のアトピーのカルテがある。10代の時に初めてアトピー入院したとき
主治医にくっついてくる担当医が、調べて驚いていた。

最近は混合軟膏は各薬の効果が患部意外に悪影響を及ぼしてしまうので、
あまり混合軟膏は処方しないというトレンドもあるんだそう。
その私が生まれた総合病院の東大出の名医?と呼ばれる皮膚科医はそう言っていた。
近所のクリニックで処方されたものと同じ配合で作ってほしかったのだが、
あっさり断られた。医者にもプライドがあるんだなぁ、他の医者と同じものを
出すわけにはいかないんだな〜と思ったが、そこで出されたのが山ほどの
リンデロンVG軟膏チューブ!これじゃ、処方でも治療でもなくて薬屋じゃないか!?
しかも20年前となんら変わってないじゃん!?
医者は簡単だよね、ステロイドそのまま処方すればいいんだからさ。

そして、非ステロイド軟膏。私には日に2度塗るステロイド軟膏のつなぎに
肌が乾燥して痒くならない保湿のために、そのワセリン系非ステロイド軟膏も
山のように処方されたことがある。

非ステロイドだから強い副作用もなく万人向きというようなイメージだった
ワセリン系軟膏、私もはじめは安心して全身に使っていたが…どうも心地悪い(以下前出)
ステロイドあってこそ、その溶媒剤としてのチカラを発揮するものであって、
説明にこそ傷や炎症に効くようなことが書かれているが、
実際アトピー肌の人が使用すれば、バリア機能が低下している肌に
油分で蓋をしてしまうだけで浸透はしないし、熱をもったり、塗りこむ際の摩擦で、
皮膚がこすれよけいに痒くなってしまうなんてことは、アトピーの人なら
一度は経験があると思うが、良心的な医者ならそのぐらいの説明はあるが、
注意書きや使用上の注意はひとつも書かれてない、もちろん薬剤師からも
そんなひと言はない。ネットのお薬辞典など調べても、合わない場合は使用を中止、
医師の〜どこにでもある注意書き程度なのだ。

臨床しない、話を聞かない医者がいかに多いことか?
もちろんそうじゃない医者もいるが、なかなか巡り会えないということは
やはりそういうことなんだろう。薬効をいちばん感じているのは、
医者ではなくて患者なのに!患者の声を聞けば
薬の良し悪しだけでなく、アトピー治療の研究にもなるだろうに。

続く

写真は断食明けの朝の雲ひとつない青空。

Wednesday, March 2, 2011

My life as Atopy 1 Fasting Week Now!!


総合病院の皮膚科にかかるのを止めると決心して、それは昨11月の緊急アトピー入院以来
不本意ながら3ヶ月も使い続けてしまったステロイドを止めるということで、それとほぼ
同時に小麦抜きもはじめて、先月のPMSの頃から始った脱ステロイド特有のリバウンド症状。
浸出液とかリンパ液と呼ばれる黄色くて血の匂いがする液体が顔からドロドロとマグマの
ごとく、瞬く間に流れ出し、顔は腫れ上がり、顔、首、デコルテ、肩、上半身が心臓になって
しまったように、ドクドクと脈打ち、痛みと掻痒感で眠れない悪夢の日々が続く。
「来たか!?」と、覚悟を決めた。

このような脱ステロイド症状は私のアトピー史上3度目のこと。
使用期間を考えれば、過去いちばんダメージが少ない…とはいえ、そうじゃなくても
すっかり曲がり角を過ぎてしまった肌と年齢もある、どうやって回復させるか?!
それでも、今回はどこか気持ちが落ち着いていた。

小麦抜きの好転反応だったのかも知れないと思ってる。
PMSに伴って、いっきに吐き出されはじめた感じがした。
小麦だって、アレルギー反応を起こしていたわけではない。食べ過ぎていたんだ。
ステロイドももうわかっていた、数ヶ月とはいえいちど決別した医者のいうことを
信じてみようと塗りはじめたが、20年前となんら変わりのない診察と処方に見切りを
つけた。病院で保湿用にと処方される非ステロイド軟膏でさえ使いながらも半信半疑??
食べ過ぎ、薬の使い方、もう身体が限界だったんだろう。
なんか身も心も詰まってる感じがずーっとしていた。

断食しようと決めたのは、小麦抜きをはじめた頃からだったので
ちょうどいいタイミングだったんだと思う。生理後の体重が落ちやすく
なっていく時期と浄化に向かう新月に併せて、約2週間の軽減食→断食→回復食
というスケジュールを企てた。
これは京都の高雄病院で行ってる断食コースを参考にしたもの。
以前にこの病院には大変お世話になって、この病院に入院した際に経験したことや
ドクターとの出会いが、私のアトピーに対する考え方の指針になっていた。
最後に入院してたのは15年ぐらい前のことになるけど、高雄病院に入院したことは
忘れられない…のだが、傷みや辛かったときの記憶は、もう二度と経験したくないからか?
入院中の楽しかったことはよく覚えているが、辛い傷みの
記憶がほんとうに飛んでいた。
激しい掻痒感と傷みと流れ出るマグマ(リンパ液)の匂いで、
その傷みと辛かった日々が一気にフラッシュバックする。

10代の終わり、20代ど真ん中に、シーツを血だらけにして、
この脱ステロイドをして入退院を繰り返して来た。
もうステロイドを使うことはないだろう…と、終わらせていたつもりの
30代はアトピー出す間も薬を使う間もなく、駆け抜けてきた。
年齢やストレスによる、アトピー以外の症状には悩まされはじめたが、
それでも、過去の酷いアトピーと比べたらたいしたことはなかった。

皮肉なことに、そのステロイドの影響とも言われる
アトピー性(外傷性)白内障になり、あっという間に
見えなくなってしまった。手術後アトピーまで悪化した。
まさか、今になって過去の総決算をするようなことになるとは…






Friday, February 25, 2011

Gluten Free Diet 3weeks Gulten downer!?


2/21からの週は火曜の夜、水曜の朝、木曜の朝、と結局3日間続けてパンを食べた。
夜にバケットを2切れ、朝食にはドライフィグとクルミ入りのものをトーストして2切れずつ。
今まで食べていた量の1/3にもならない。この3日分がかつての朝の一食分ぐらいだった。
ほんとに毎朝よく食べてた。バターもたっぷり塗っていたしね。

小麦抜きをはじめてから主食は玄米雑穀中心になり、すると自然に
肉や魚を食べなくなった。まったく食べないわけではないけど、
玄米と動物性のものは合わない感じがしてきたからだ。
陰と陽のバランスの問題なのだろうか?これはマクロビオティックの領域かな?
とにかく、自然に玄米菜食っぽい食事に切り替わってきた。

久しぶりにパンを食べた後に、身体がちょっともたついた感じがした。
これは、牛乳を飲んだときに、ふっと落ちる感じというのかな?
基本的に牛乳は飲まないけれど、たまにカフェオレとかカプチーノとか
カフェなどで豆乳の選択ができないときなんかに、身体と相談して飲むと
そのふっと落ち着くような、にぶるような感じになるんだけど、
よく、眠れない時に、就寝前に一杯のホットミルクを飲むといい…
と言われるのと同じ作用なんじゃないかと。

久々に食べたパンでも、さすがに眠くはならなかったけれど、
少しまったりするような感じがあった。ダウナーというのかな?
気のせいかも知れないけれど。

※ 写真は昨年よく作った小麦全粒薄力粉のビスコッティ













Wednesday, February 23, 2011

Gluten Free Diet 2wks past

小麦抜き生活も半月が過ぎて、昨夜と今朝は久しぶりにパンを食べた。
食べる前に『大丈夫かな?痒くならないかな?』と思ってしまったのも正直なところ。
今まであれだけ食べてきたのにねぇと自分でもおかしくなってしまったけど。
神楽坂PAULで買ってきたバケット類はモチモチタイプだった。
上質で高級な味がしたけれど、『まぁ、こんなもんかな?』
というのが2度食べてみた感想。次からわざわざ買いにいくか?
多分、しばらくは行かないだろうなぁ。それほどのもので、それほどのものだった。
PAULという名前で食べてたのかも知れないな?

あれだけ自分はパン好きを自負していたのに、こうして止めてみれば
簡単に止められるもので、久しぶりに食べても適量ですんだ。
今までいかに食べ過ぎだったか、つくづくよくわかった。


            玄米黒ごまきな粉クッキー ↓
玄米コーンブレッドと同じく朝食用クッキー リブレフラワーという全粒玄米粉を使用。
玄米粉と黒すりごまが混ざったきな粉がベースで豆乳で溶いた葛粉と菜種油でつなぎ。
甘味は粗製糖を少々と黒ごまもパラリと入れてみた。つなぎが少なくてボロボロしたが
玄米粉はもともと煎ってある生食もできるものなので、とても香ばしい。




Tuesday, February 15, 2011

Gluten Free Diet 1wk ムーンタイム

そして1週間がすぎ、満月が近づき、PMSもあり、
前夜の苦しみは悪夢のフラッシュバック。
また整理しきれていない過去の夢を見て、
身体の症状はすべて悪化した。これも浄化と思いたい。
生理前は必ず、身体の諸症状が悪化する。
弱ってる部分が顕著になるというのだろうか?
そのたびに、どこが弱ってるのか?
身体上なのか?感情なのか?何かしらの症状で現れる。

昨夜は顔と首に激しい掻痒感と浸出液(リンパ液)が出た。
この症状は過去にも経験がある。やはり思い切ってステロイド軟膏を
やめた時だった。ほんとうは徐々にやめるのがいいのだろうけど、
私の性格上、思い立ったらすぐに全部やめたいのは今も昔も同じようだ。
朝目覚めて、うなじにしみ出した汗でも血でもない、独特の匂いを放つ
汁を触ってすぐにわかった。リバウンドだ!

昨日塗った非ステロイドの薬があわなかったのか?
いや?夕食後の口直しに(ちょっと悩んで)
食べたヨーグルトのかも知れない?たしかに
ヨーグルトは食べなくてもよかったの食べてしまった感じはある。
身体にとっては負担だっただろう?無駄に乳製品を摂ると
浸出液が出るような症状が出るのは身体が知ってる。
食べても大丈夫なときもある。

いま身体が何を求めているか?
それがわかるようになったらいいなと思う。
身体が要求してないものを食べて、それが
胃腸の負担になっているんだろうなぁ。
もしくは、それを吐き出す為に肌に症状が
現れているのだろう。そして、そんな身体の
浄化作用がもっとも高くなるPMS期だったわけで
いろいろなことが作用しての昨夜の悪夢だったんだろうと思う。

一進一退…これを繰り返して
少しずつ回復していくんだと信じている。
脱ステロイド、今回は昨年末の数ヶ月の使用期間。
数ヶ月が長かったのか?短かったのか?のはわからないが
回復させるにはその数倍の日数がかかるだろう。
忘れた頃に治ってるんだとは思うが、
このリバウンド症状がはじまると、道は長く険しい。

今年も半分終わってしまうかもしれないが、
ゆっくり自分の身体のサイクルと時間に身を委ね
自己治癒していきたい。

脱ステロイドをして半月(うち一度だけ傷に少し塗ったけど)、
小麦抜きを始めた1週間がPMS、このリバウンド症状も含めて
たった1週間でいろいろな変化が起こった。
小麦だけが掻痒感の原因ではないのだろうとは思うが
小麦を抜いただけで治まった掻痒感もある(気がする)

脱ステロイドも小麦(乳、卵)抜きも
足し算ではなく引き算方式だ。苦にならない。
そういう意味でダイエットなのだ。

ムーンタイムはトンネルのような時間でもある。
暗闇で何が起こるかわからないけど、抜ければ
また一段階落ち着く。
今日も顔は真っ赤に腫れ上がっているが、
強ばっていた地肌の質感が少しずつではあるが
柔らかくなってきた、これは本人にしかわからない
レベルではあるけど、気のせいかもしれないけれど
このムーンタイムの流れに逆らわす、身体の中と外で
起こる症状を受けとめて、浄化していきたい。
今回の腰痛も、腰をいれろ!というお知らせだったのかも?

再生のときだ。



ムーンタイム

すべての女性にとって、ムーンタイムは健康の基盤となるものであり
そうやって得た健康を維持するための自然のサイクルでもある。
女性は生理になると自然によって清められつづける。
それは特別な時間であり、その間彼女は母なる地球のサイクルと
宇宙に偏在するコズミックな力と調和を取るように心がけるべし。
彼女たちはそのためにも、あたまとこころとからだをひとりになるところに
置いておかなくてはならない。

それは女性にとって聖なる時。だから、自分の全体性を再生産するために、
自分自身をかき消す。沈黙思考と瞑想と祈りと個人の償いだけに費やして過ごすこと。
女性はムーンタイムをスピリチュアルなものととらえて、月への祈りと共に
うやうやしくそのときを迎えなくてはならない。

テラ・スタホーク ユロク一族 メディスンウーマンの言葉

北山耕平著 『地球のレッスン』より抜粋







Friday, February 11, 2011

Gluten Free Diet 3~5 パン食い PMS

月は上弦をすぎ、東京にも雪が積もった。
小麦抜き生活が始って今日でもう5日目になる。
そして、PMSがはじまった。
これがはじまると、体調のすべてが7割ダウンする。
小麦抜き生活の効果も感じにくくなる。

心も身体も全体的に力が落ちて、食欲だけが増進する。
毎月の事ととはいえ、よほど体力を使うことなのだろう。
とにかくお腹が空いて、炭水化物を食べたくなるのである。

今までPMS期に何を食べていたかって??
そう!それが小麦粉だったのだ。

ぎゅっと詰まったベーグルとか、バケットとか、
卵やバターが入っているようなものは好まないのでほとんど食べないけれど、
それでもパン、パン、パンと夜中に喉が詰まるまでパンを食べると
月も私も丸く太って、そして生理がきて食欲も体調も落ち着く。
でもこれ
明らかに食べ過ぎ、限度を越えてたと思う。
そんなルーティンをいつから繰り返して来てしまったのだろう?
PMSと言えば過去の清算とそれに伴う感情の波と、
とにかく、黙々とパンを食べることになっていた。
PMSを免罪符に感情と欲望のままにしてきた。
抑えられないのがPMSなんだと思ってきた。
たぶん、それは違う。

小麦抜きのパンなしでむかえる
新春始めのPMSとムーンタイム。
何が起こるのか?どんな感情がでてくるのか?
どんな変化や症状が現れるのか?
戦々恐々??大変なのは間違いないけど、
できれば、慌てず騒がず受けとめて、
静観できるようになりたいものである。

Oh Moon, You know where i am going to..











Thursday, February 10, 2011

Gluten Free Diet 2 玄米コーンブレッド

私がはじめた小麦抜きをグルテンフリーダイエットと呼んでいいものか?
どうかはわからないけれど、
略すとGFDだし(笑)響きもいいので、
とりあえずこのままそう呼んで続けていこう。

木曜日は3日目。

一昨日たっぷり8時間浸水した玄米を4合炊いて、
※スペルト小麦やレンズ豆の入ったイタリアの雑穀ミックスと
家にあった野菜・根菜類を、干し椎茸と昆布と香味野菜でとった
出汁で和風ミネストローネスープをたっぷり作っておいた。
これ穀類が出汁を吸うので、翌日は野菜の煮物のようになる。(これまた旨い)
小麦を抜くと雑穀が楽しくなってくる。

ひとつだけ、ちょっとなんとかクリアしたかったのが
朝食だった。何より朝食のメニューが好きなわたしである。
朝のコーヒーとパン、パンケーキ、マフィンといった小麦粉ものに
これまで心血を注いできた(それほど大げさなものではない)が、
朝食べる小麦食品にはこだわってきた。
時間と材料があれば、朝から小麦粉をふるって、
パンケーキやマフィンを焼いた。

こんなこだわりができたのは、旅の副産物なのではないかと思う。
旅先での朝食の時間は、何がはじまるか?何をしようか?どこへ行こうか?
そんなことを思いながらゆっくり過ごせる大事なひととき。
だからこそ、食べる物にもこだわりたい。旅先で食べる物は
それがそのまま力になり、身体をケアしてくれるのだから。
旅先でのブレックファストメニューというのもどれも魅力的。
朝昼夕食の中でいちばん好きかも知れない。

こうやって食べ物の嗜好ができてきたんだなぁ。

また話が飛んで行きましたが、
ということで、朝はコーヒーと一緒に何かを食べる
スタイルを変えたくなかったので、何かいい代用はないかな??と
思いついたのがコレ→『玄米コーンブレッド』

これはまさに旅の味。NYを旅した時に覚えた味である。
NYCイーストビレッジにある老舗ベジタリアンレストラン
Angelica Kitchen の名物、その名もアンジェリカコーンブレッド。
ここは私がNYCへ行くたびに必ず、食べにいくお店。
このコーンブレッドを食べないとNYC来た気がしないぐらいの大好物だ。

よし!あれを目指して作ろう!


そして、焼き上がった写真がコレ ↓ ボケ子特製『玄米コーンブレッド』


実はこれ昨夜からずっと考えてた思いつきレシピ。
小麦を抜くということで、反ってお料理の想像力がふくらむ
雑穀が楽しくなってきたというのはそういうこと。

作り方は
ツイッターで140文字でつぶやいた。
一晩考えたわりには、とっても簡単なんです :-)


そろそろPMSもはじまるかしらん?

そんな二月の四月ボケ子より

















Wednesday, February 9, 2011

Gluten Free Diet 1 ボケ子 旧正月のモノローグ

マクロビオティックを勉強している友人からのアドバイスもあり、
思うこと、思い当たること多々あって、
気持ちと状況が合致したときこそがタイミング!
ということで、流れるままに小麦抜きを始めてみた。

今日はその2日め。

その前に、今日までの私のアトピー人生と
ステロイドや食べ物については、長い長い道のりは、
今日のところはバッサリ割愛したい。それはまた追って、
いつか振り返らなくてはいけない時がくる。
いや、もう毎日振り返っているどころか、
痛みや痒みとともに
悪夢のようなフラッシュバックに、ふとんをかぶって
身体をぎゅっと縮めて眠り、尋常では掻痒感と、嫌な寝汗をかいて
目がさめるという日々が、つい先週まで続いていた。
振り返るには早すぎる?
我が家の老女たちの夕食時に『今日のお昼は何を食べた?』
と聞くようなものか?老女たちとのそれとは違うが、
私もずいぶん忘れっぽくなってきた。
忘れないうちに振り返っとかないと
苦しかったことは忘れる。
そう、なかったことにしたいのかも知れない。
だから、ずいぶんと忘れている。
しかしこれが同じ痛みを繰り返すと
一瞬で思い出してしまうんのだ。

そんなビッグフラッシュバックが昨年続けざまに起こった。
たった1年で40年分のアトピー体験をダイジェストで
全部やってしまったような1年だった。
アトピー人生を振り返るには申し分ないじゃないか!
この機会に総決算したくなった。

この際だからダイジェストではなく、
トリビュートにして葬ってあげたい。

新月の旧正月、節分の鬼とともに、
そのときが来て何かが
大きく変わったのだ。

振り返りながら前へ進んでいる。
前というのは回復という意味である。
自己治癒、自然治癒、セルフヒーリング。

掻痒感から無意識に掻きむしり、炎症を起こし
糜爛し
ステロイドを塗るの繰り返し
、外見の醜さや外気の刺激に耐えられず、
引きこもり鬱っぽい気分になり、またストレスがたまって過食したりの
悪循環スパイラル。いったん落ちるとなかなか抜け出せない浸出液の沼底。

そこよ、そこ!底まで行くと浮かび上がるしかない。
浮かび上がれることも身体は知ってる。
2011年卯年 兎のごとく、また蹴り上げた。
沼の底を大きく蹴って飛んだ。

得意の瞬発力で月曜日にスタートした小麦抜き(GFDiet)と
私のアトピーの
傷と再生の繰り返しと身心の変化をみていきたい。
小麦抜き アメリカではグルテンフリーダイエットと呼ばれているそうだ。

またアメリカのブームを先取りするような感じで、
ちょっと恥ずかしいけど、時代の子供がそれを求めているんだろう。
そういう意味では私はいつも先を行く、カナリアのようなものだ。

話はそれるが、ここ十数年踊ったアフリカンダンスも
90年代ニューヨークでヒップなトレンドだった。
私もニューヨークでその魅力にはまったひとりだ。
SATC(シーズン3)に、アフリカンダンスクラスシーンが
あったのを見て合点した。キャリーとシャーロットが踊ってた。
あーゆー白人よく見かけた(笑)

私がやることってたいがい流行る(笑)

私が流行に飛びついてるとも言える(笑)

トレンドはアメリカを経由して日本に数年遅れてやってくるんだ。
アメリカでスタイリッシュになって、日本でおかしくなる。

ときは00年代から10年代、食料の値段高騰がはじまるそうだ。
コーヒー チョコレート(カカオ)がニュースになっているが、
小麦だってそうだろう。これについては気候の問題だけじゃなく、
世界の経済情勢や大人の事情、何か裏があるに決まってるから、
この話題についても今日はバッサリ割愛させて頂く。

でも小麦の値段も間違いなく高騰するだろう。

(先進国の)人間が食べ過ぎたんじゃないか?


自分の身体は、地球と同じだと
気がついている人は多いはずだ。
そして、食べたものがその人を作って
その人の命になる。


高度経済成長を支えた大人たちの子供として
大阪万博で太陽の塔の目が光った70年に
生まれたときから、そんあ時代の副産物として、
母のお腹の中からなのか?何の因果(カルマ)か?
それとも神様からのギフトとして授かったのか?
持って生まれた、この病気と食べ物と環境とが、
地球上に生きてるものとしての私につながっていないわけがない。

マクドナルドとカップヌードルと
キティーちゃんと同じ時代を生きて来たのだ!
(マクドナルドとカップヌードルは絶対ないけど
キティーちゃんは去年アニバーサリーTシャツ買ったw)

小麦抜き(グルテンフリーダイエット)
を始めたら見えてくることはたくさんありそうだ。
そう思うとワクワクしてくる。

それは肉を食べないベジタリアンやビーガンとも
共通して見えてくることがあるんだろうと思う。
そこにも今は触れない。

小麦抜きもこれでなんとかなるとは思ってはいない。
厳格な徹底はしてないし、しない。
それでも2日目にして明らかに変化があった。
思い込みも含めて、確実に身体にいい変化が起こった。

お米よりもパンが好きで好きで、パンが好きな自分が好きでw
小麦粉で焼き菓子を作るのも好きな私だった私の
大いなるパラダイムシフト(大げさw)がはじまった。

I am who i am.


私に小麦抜きのキッカケをくれた、友人がもてなしてくれた一品。 その日の夕食のメニューには小麦がいっさい使われていなかった。 そのことを帰る間際に話してくれた。友の心づかいとやさしさに 涙じゃなくて元気が出た。ごちそうさまとありがとうの気持ちをこめて。

木瓜子