Wednesday, March 30, 2011

TULIP WATER 1

A Flower Will Bloom in Your Garden.


それでも、わたしは毎日シャワーを浴びている
いま世界はひっくりかえってしまったというのに...
それでも、毎日こうしてシャワーを浴びているんだ

毎夜悪夢と寝汗とで、干からびた身体に潤いを与え

自分ではどうすることもできない皮膚バリア機能を補うために
保護膜をつくるために、保湿クリームと傷口を塞ぐ薬を塗る

そうして、やっと人間らしき生物になって1日が始まる
今日もそうして、1日が始められたことに感謝する
ありがとう そう唱えて朝陽にむかって祈る

そうして、やっと今日も人間になることを許される
命をつなぐ水、乾いた心と身体に潤いと力を与えてくれる水...


TULIP WATER 1 

アトピースキンケア治療と言えば、健全な(?)衣食住とストレス対策など
言い出せばきりがないほどあるけれど、基本的には、毎日肌を清浄し
清潔を保ち、
薬または保湿クリームを塗って肌の乾燥や防いで、傷を保護して治す
ことである。
これは病院に入院してする治療ともまったく同じで、入院しても毎日決まった時間に
シャワーを浴びて全身に薬を塗られる、時にはガーゼや布をあてられ包帯で巻かれる、
そんなもんなのであるが、いかに肌の清潔を保つことが大事か?=シャワーを浴びることが
大事か?シャワーを浴びることができなくなると、それはアトピーさんには命取りだったりするわけで..

だから、日本が、世界が、ひっくりかえろうとも、もう取り返しがつかないギリギリのところまで
来てしまっていても、私もギリギリだったので、余震が来るのも覚悟して、毎朝起きるとまず
全身から舞落ちる麟粉をはらい、まずはシャワーを浴びて目覚め、保湿クリームを全身に塗り
やっとどうにか、干物が水にもどるように、人間らしき生物になって朝が始まり、窓を開け、太陽を
確認し、スズメや鳥の声に耳を澄まし、ようやく、祈ることができる。

それが3.11以降の朝の儀式になった。

地震以降、まずはじまったトイレットペーパーの買い占め。
我が家はたまたま生活クラブから届いたばかりだったので、
買い占めることも不足することもなく事なきをえた。

トイレットペーパーがなくなったら、アフリカ式に『水』でいいんじゃないの?
アフリカなんかそもそもトイレットペーパーなんてないし、
あの塩化ビニール製のカラフルなヤカンに入った水で、手で洗う方式、
まさにお手洗いな、『水』でいいじゃん!なんて、
(私はそんな暮らしを経験したことだってあるから大丈夫よ!と、)
軽口を聞いたが、それも『水』あってのことだよなぁ...少し気になりはじめていたんだ。

トイレットペーパー同様、東京でも一時期、
生理ナプキン等生理用品がドラッグストアから消えたそうだ。
そういえば、家の隣のコインパーキングから、「ナプキンがなかったから
タンポン買ってきたわー」なんて大きな声で話してる女性の声も聞こえてきて、
あ、ほんとにナプキンも買い占められてるんだなと知った。

被災地からの不足している救援物資情報にも生理ナプキンというのもあったし、
Twitterでは、非常用の生理ナプキンの代用として、いらなくなったカットソーなどの袖口を
再利用して簡易布ナプキンにする作り方ツイートがタイムラインに並んでいた。
So, 奇しくも地震はスーパーフルムーン前の週、地球も女性だというけれど、
ならばあの地震はPMS?それともスーパーへヴィーデー??
あの頃、生理前後だった女性は多かったはずだ。
地震後の満月に向かう1週間は、まさに私もPMSからムーンタイムになって、
より全身を清浄しなくてはならない日々だった。
毎朝、不安と緊張と寝不足とでぼーっとした頭と身体を起こすように、
熱めの湯を流しかけている、湯水のごとくとはこのことだなぁ、、
こんな日をいつまで続けられるんだろうか?と、
人生初の非常事態に、直感が、本能が、もうすでに気がついていたんだ。

この不安と緊張感の中、生理がくる。
アトピーが少し悪化する、デリケートゾーン(自律神経エリア、わきの下、ソケイ部、外陰部、等々)
が痒くなったり、変な汗をかいたりして、さらに肌が敏感になる。いつも通りに布ナプキンを使う。
というか、もう下着もそうだけど、オーガニックコットンの布ナプキンしか使えない身体になっている。

布ナプキンを洗うにはたくさんの水を使う。
経血は、血液なので水でしか落ちない、バケツに貯めた水で
まずはつけおいて、それから無添加せっけんなどで洗うのが
布ナプキンの洗濯だ。経血が流れた水を大地にかえすというのが
エコロハススタイルだけれど、そんなにたくさん流せる大地があるわけでもなく
せっけんで洗い流した水は、大地(といっても庭)には流せない。
とにかく水をたくさん使って洗濯をしなくてはならないのが、布ナプキンの特徴でもあり
弱点なのかも知れない。毎月、つけおきしたバケツの水をじゃぶじゃぶと流して我から
はがれおちた経血を洗い流すたびに、思い出す友人の言葉がある。

「布ナプキンは、水のないところでは使えないんだよ。」

そう教えてくれたのは、アリゾナの居留地でネイティブアメリカンのダンナさまと
暮らしていた友達だった。彼女もアトピー体質、日本では有機木綿の手つむぎなども
していた人だ、布ナプキンの心地よさだって熟知しているだろう。
そんな彼女のその一言(パンチ)は、効いた。今でもずっと忘れられない。
きっと、彼女にしたらそれがアリゾナでの常識だから、
何気なく言ってくれたに会話だったのだろうけど、
その一言が、なぜか私には忘れられなかった。

たしか、アースデーで偶然会ったときのことだ、
布ナプキンブームが来ていた、売ってるお店も多かった。
私もちょうど、使い捨てナプキンから布ナプキンに切り替えて
1年ぐらい経っていたころだろうか?人に布ナプキンを薦めたりもしていた。
ゴミにはならないし、エコでロハスではあるけれど、それは蛇口をひねれば
出てきてくれる安全な「水」あってこその話だ。たしかに布ナプキンは快適だけれど...
それを知っていても使えない場所だってあるのだ。この心地よい暮らしは「水」や
ライフラインがそろってこそ、成り立ってるわけで、そんな状況が当たり前ではないことが
世界には、地球上にはまだまだたくさんあるのだということを思い知らされた。
思い出させられたというのか?

地震直後の生理、そして、布ナプキンの洗濯と日々の
スキンケアのためシャワー何もできなかったけど、「水」を使うたびに
この水は...(いつまで大丈夫なのだろう??)
言葉にならない不安のようなものが浮かび始めていたんだ。













Monday, March 21, 2011

311のこと 友達へ宛てた手紙

           



地震は大丈夫でしたか?
ご家族の皆さんも大丈夫でしたか?
お見舞いのケーキどうもありがとう。
お礼のお礼メールが遅くなりました。

あの日、私は断食明けの経過報告と
薬の処方診察に飯田橋の漢方医院にいました。
屈強な建物の中だったので、揺れたときは
そんなに怖くなかったけど、揺れないから
院内の人たちはさほど心配してなくて、
それから、医院を出て、あまり馴染みのない
飯田橋駅でもちろん電車はとまり、大きな余震で
立ち往生でした。駅のテレビはNHKだったけど、
東京の情報がまったくわからないまま、余震におびえていました。
とりあえず暖をとろうと駅となりの頑丈そうな合同庁舎ビルの中の
カフェに入り、カフェの人たちは気丈に働いていた姿が感心でした。
それで少し気持ちが落ち着いて、温かい飲み物と椅子を確保して、
電話としてはまったく機能しなかったiPhoneでしたが、
ネットはバッチリだったので、周囲の人たちと情報を分け合い
励ましあったり、つながる電話を貸してもらったりしながら様子を見ていました。
電車が動かないとわかり、夕暮れも近くなってきたころ、
人の流れが変わって、雲っていた空が晴れてきた瞬間に
『日が暮れる前に歩こう!』と動物的?な勘がもどってきて、
飯田橋は知らないところだけれど、いつも市ヶ谷まで歩いていたときに
新宿方向の標識をみてたので、まぁ、新宿まで出ればなんとかなるだろう!
と、歩き出しました。狭い歩道は民族大移動!自転車屋さんに長い列ができてたのは
お財布に余裕がある人たちは、自転車を買ってそれで帰ろうとしていたみたいでした。
まるでラッシュアワーみたいな道の混雑ぶりでした。流れに身を任せると赤信号も
気づかない!ヤバいなーと思いました。薄着で出かけてしまったんだけど、
たまたまジーンズにコンバースを履いていたのが正解でした。
コンバースは地下足袋みたいだった(笑)

飯田橋→市ヶ谷→防衛省→曙橋→新宿御苑→2丁目
昔2丁目の69やGardenで夜遊びしていて電車がなくなって、
タケちゃん家までみんなで歩いて泊めてもらった道でした。

新宿で明治通りに出て『渋谷区』という標識を見たときはすっごいホッとしました。
初台の方へ出て246という道もあったみたいだけど、
車が通る道の歩道は狭いし人も多いし道順がよくわからないので、
いつも散歩してる道を目指して、明治通りを原宿目指して歩きました。
新宿→北参道→昔カレー屋Geeがあった辺り→東郷神社→
原宿のラフォーレ交差点が見えたときには、『あぁ、もう大丈夫だー!』と
ものすごい安心感(笑)に包まれました。

渋谷に出れば祖師谷大蔵行きのバスが動き始めたという情報もあったけど、
新宿まで歩いてるときの車道のものすごい交通渋滞とバスの混雑ぶりを見ていたので
今さら何かに乗る気にもならず、道も人も混んでるだろうと、
そのまま明治神宮から代々木公園へ入りました。
夜はとっぷりとくれて、空のてっぺんには上弦の月。
月が見守ってくれてるようでした。何度も見上げた。
誰もいない代々木公園の噴水の手前で公園を出て、富ヶ谷へ抜ける道を下り
代々木八幡を目指しました。この道は私のお気に入りの散歩エリアで、
いつもなら代々木八幡から小田急線に乗るところだったけど、
もちろん小田急線も動いておらず、ツイッターでみんなに励まされながら歩きました。
民族大移動の中にいたときは一生懸命歩いてたから、寒さも空腹も忘れていたけど、
代々木公園で1人になったとき、鼻水が流れているのにきがついて(笑)
唯一もってた食料ののど飴を舐めようとしたら、ポケットから飴を出して
袋を開けようとしても、手が寒さでかじかんで動かず、飴の袋を破くこともできない。
それほど身体は冷えきっていたみたいでした。疲れてるんだななと我に返りました。

歩き続けた間も電話はつながらなくても、
ツイッターでみんなが情報や励ましメッセージをくれて、友達が代々木八幡に
その友達の友達がやってるいいお店(カレー屋)があるからそこで休んで!と
メッセージをくれたり(嬉しかった!)そこは場所もわからなかったんだけど、
偶然にも代々木八幡から代々木上原へむかおうとした瞬間にそのお店が目の前に
現れてびっくり!地震の夜で閉めてるお店も多かったのに、そこには温かい灯りが
あって、迷わずドアを開けて階段を上ってお店にいれてもらいました。
カレーが美味しくて有名なお店で、メニューのホットワインの誘惑に負けそうだったけど
いま、ここでホットワイン飲んじゃったらこの先歩けなくなるな!?という直感と理性に
とめられて、美味しいベジーカレーを頂き、そのお店を教えてくれた友達からの連絡も
あって、はじめて会った人たちだったのに、おしゃべりが弾み、地震から今までの
緊張がいっきに解れて、ひとときの和やかな時間を過ごし、奥様に心づくしの
デザートまでサービスして頂いて、空腹だけでなくiPhoneの充電までさせてもらって、
やっと家族ともメールが通じてひと安心。そのまま楽しい週末の夜を過ごしたいところ
だったけど、まだ家までは7-8kmは歩かなければならない中間地点。さぁ!と腰を上げて
店を出て、代々木上原からモスリム寺院東京ジャーミー右手に拝み井の頭通りを北沢方面に
歩き続け、下北沢一番街へつながる裏道に入って、世田谷区入り。
下北沢まで出ればもう庭のようなものなので、それからは
いつもの道を小田急線に沿ったり裏道抜けたりしながら歩いたの。
夜はとっぷり暮れて風もつめたくなってた。
さすがに環八を越えて砧、祖師谷に入ったときには膝が笑ったよ。
飯田橋を5時ごろでた時、家につくのは10時だな?と、帰巣本能が予測をした通り、
途中思いがけないカレー屋さんとの嬉しい出会いと休息もいれて、
約5時間の避難歩行となりました。決断したのが夕暮れ前で正解だった。

あとひといき遅かったら帰宅難民になるところだったし、
あまり慣れない飯田橋付近で帰宅難民になっていたら、
情報も少ないし避難所が開いたのも遅かったから、
もっと戸惑っていただろうなと、、
空の色やお月様を便りに歩いてよかった。
これは私の中の思考じゃないお腹のあたりにある中心軸が
決断してたように思ったよ。私、絶対帰れる!ってね。

歩いてるときは余震には気がつかなかったし、
テレビなどのメディアの情報は入らないから
家についてから、ホッとしてまたお腹が空いて、
もういちど温かい夕食をとってから、
テレビをみて事の大きさに怖くなって
疲れているのにまったく眠れない夜でした。

以来、節電したり家族がまとまったり、
穏やかに暮らしているのだけれど、我が家には91歳と89歳の病弱な
年寄りが2人いて、(父は職場の障害者の方々のグループホームを見なくちゃいけないし)
母と私がこの年寄りと老猫をなんとかしなくちゃ!という責任とか、
どこからくるのかわからない不安と緊張で身体がガチガチで、
眠れない日が続いてます。最近、やっと、というか、
もう疲れちゃって眠れるようになりましたが寝汗が酷いの。
バランスが壊れてるんだろうね。高熱を出した時みたいな
寝汗をびっしょりかいてる。でも、少しスッキリするんだけど。

テレビやラジオの情報はほとんど入れないようにしてます。
耳を澄まし、空の色と朝夕飛んでくる雀や野鳥の鳴き声、
これはもうずっとだけど、月の満ち欠け、そして、何より
自分の身体の感覚!これを信じて、風の伺い生きるようになってきました。

思えばちょうど一ヶ月前から脱ステロイドの強いリバウンドが始り
顔は腫れ上がり熱も出て、皮膚呼吸はできず、身動きも取れず
泣きたくなるようなリバウンドの日々が始りました。
3度目の経験とはいえ、何度やってもこれは辛い!

だけれど、Chiho-chan&Kan-chanからのお見舞いメールや
ケーキの贈り物や、ツイッターで同じ脱ステロイドを経験をした人の助言とか、
いろんな人の力の助けで、過去に3度(1年ぐらいかかったこともあったけど)
復活して元気になった!という自分の自己治癒力も信じて、
そこだけはぶれないように何が起こっても、途中で塗り薬(非ステロイド)の
選択を失敗して悪化しても、それも過程だと受けとめるようにしながら、
なんとか心乱れないように、痒くて眠れないときは瞑想をしたり、
少し掻いても落ち込まないようにしたり、眠れない日々をなんとか楽しいことを考えたり、
引きつる肌を引きちぎるようにストレッチをしたり…
ちゃんと毎日清潔でいられるようにこまめに布団の掃除をしたり、
自分の為に除去食や断食食を作ったり、日常の身の回りの生活を
とにかくキープしようとがんばりました。
もう自分で言っちゃうけど、ほんとがんばったんだ。

見た目、肌の表面的には酷い状態だったけど、
内側は今までにないぐらいとても落ち着いてた。
落ち込まずにいつも前向きだったし、私は再生できる!と信じてた。
自信がもてるような取り柄もなにもないけど、今回はこれだけは
確信していたのが、3度も繰り返して40歳になったからかな?
と、思ったよ(笑)
いちばん顔が腫れ上がって、リンパ液が流れ出てたときに
なんとか飯田橋の(地震に遭う3週間前の診察)
漢方医の先生の所まで行って、診察を受けて断食の相談をしたら、
『肌はいっきに薬をやめたから悪化してるけど、
今のあなたには目に力があるから、断食も大丈夫でしょう!』と、言ってもらった。
私の表面じゃなくて中をちゃんと先生が診てくれたことが嬉しかった。
だけど炎症が酷い時の寒い日に電車に乗ってでかけたから、
そのあと熱出しちゃったけどね(笑)

そしてカロリーを減らして食事制限を始めた断食週も毎日症状が変わって、
食欲の煩悩も爆発したけど(笑)食べるということを考え直す機会になった。
3日間の断食中は過去に3度経験した脱ステロイドリバウンドの症状が
まるでダイジェスト版みたいに毎日出て来て、今回の脱ステも
3ヶ月ぐらいはかかるだろうと覚悟していたんだけど、
断食中にみるみる回復していって、リンパ液がとまり、
なんとか外にも出られるようになったりして…
まだ見た目は酷いものだったけれど、それでもそこまで酷くなると、
毎日の小さな回復の変化が嬉しくて、ほんと初めての人が見たらびっくりするほど
酷い顔だったけども、それでも家族にも自分にも明らかに
よくなっている変化が見えてたの。

顔が酷い時って、変な人も寄ってくるから
断食中用の三年番茶を買いにでかけた自然食品点では、
久しぶりに、ねずみ講&信仰宗教的な化粧品をすすめられたり、
ツイッターで知り合った業界風の人には(初めは感じよかったけど)
親の愛が足りないだとか、あなたのコンプレックスを克服しなくちゃ治らないとか、
わかったようなこと言われたり、こういうエピソードもダイジェストでやってきた。

今までこれで何度も挫けて揺れてきたことだったけど、
その瞬間には反応してしまって感情的になって乱れたけれど、
すぐに受けながせるようになってた。揺れなくなった。
人は再生できるんだと、私はそうして何度も再生してきた、
生きてるかぎり人は再生できるんだ!という強い力のようなものが沸いてきて
私の中心軸になっていることに気がつきました。

いま、放射能の被害が言われてるけど、
私のステロイド薬害と似てる症状がずいぶんある。
被爆白内障と私のアトピーステロイド白内障も症状は
ほとんど同じに思える(いつでてくるかわからないから、
被爆じゃないですよ、とか、ステロイドのせいじゃないとか
医者にははぐらかされるけど)皮膚の色素沈着もバリア機能の低下もだし、
ケロイドにもなる。遺伝子のダメージは違うかもしれないけど
ステロイドで腎臓も弱る。私は40年たってその薬害が目にきた。
昨秋見えなくなって手術したのは右目だけど、いま左目も進行中。
医者は自分で引っ掻いたのが悪いというだけ。悔しいけど
もう仕方ないなという感じ、諦めて受け入れた40歳の夏でした。

弟も昨夏、疲労で倒れて入院して以来薬漬けの日々、ステロイドも内服させられた。
弟も知ってると思うけど、私と同じで生まれつきのアトピーで、
身体が強い分、私よりステロイドやプロトピック軟膏とよばれる新薬(劇薬)を
使っていた期間が長く、その影響もぜったいあって入院してからは検査検査の日々。
CTスキャンに放射能検査(放射能を注入されて被爆させて病気がある場所をみつける
とんでもない検査)をされたりしても、結局まだ病気の原因がわからず、
今頃になって過去に使われた薬を全部調べられてる。
弟がなんでずっと検査攻めかというと、脳梗塞になって倒れていても
おかしくないほどの数値なのに、退院後はなんで元気なのか?ということみたい。
驚異的というか強運なのか?無理ができてしまう身体だったそうなんだけど、
タバコも吸っていたし、さすがにそれも限界がきたようで、年齢もあるし、
弟もライフスタイルを見直すときだったんだとは思うけど、
それにしても病気の原因を究明するまでの、その薬漬けの入院の日々は辛そうだった。
半分は健康管理の問題だけど、半分は薬の副作用でどこか症状を抑える為に他がやられる。
なかでもステロイドの副作用はいちばんキツい。
もうこれ以上、不自然なもので身体をやられたくないよ。
私たち姉弟は産まれて間もないころから、当時は臨床例も少ないし
アトピー性皮膚炎なんてまだ珍しかったから、治療法も研究されてないから
バンバン強いステロイドを処方されては、診察の度に写真撮られてた。
ある病院では、こんなに酷いの見た事ない…と、医者に言われたこともあったよ。

放射能の感受は30〜40歳を過ぎるとぐんと減るそうだけど
もうすでに薬害を受けてる身としては、正直ジタバタしても仕方ないと思ってるところがある。
子供ももう産む機会もなさそうだし、なんかあきらめがついてきた。
今はパートナーもいないしね。
妊婦さんや未来ある子供は絶対逃げたほうがいいと思う!
ほんとにまっ先に安全な場所へ逃げてほしい。それを願ってる。
輝く未来に辛い思いはさせたくないからね。

私も放射能被曝には、もちろん気をつけたいし身体には取り込みたくない。
玄米や海藻、大豆、ちゃんとした塩、昔ながらの製法で作られた味噌や醤油、
砂糖をとらないといったマクロビの基本、伝統的な食事で
ずいぶん身体は守られるそうだし、それならもってこいの食事なので、
できることをしようと思ってる。いいときに食べる事を考え直す断食を
してよかったなと、すごいタイミングだったなと。

たまたま断食明けの総決算にと、地震の前に観に行った『ありあまるごちそう』
という映画で、地球を蝕む食品ビジネスが小麦と卵(鶏、ブロイラー)と牛乳(牛肉、家畜)と大豆(アマゾン破壊、遺伝子組み換え)だと改めてわかって、大豆はともかく、
私の身体が悪くなるものと、大量に非人間的に生産されて破棄される食品
(小麦、卵、牛乳)とが、まったく同じだということ、
これらの食品に反応してる自分の身体と世界を地球を蝕んでる状況が
つながってるのがわかった。小麦も卵も牛乳も正しく生産されたものを
適当な量食べる分にはアレルギーなんて起こらない。
私はちょっと小麦食べ過ぎてたことにも目が覚めた。
それで、アレルギーというわけではないんだけど、
食べ過ぎを改めるために、小麦抜きをはじめていたの。
まったく食べないということではなく、断食を機にいちどリセットという感じね。

Chiho-chanの特製スチームケーキ、
今日20日午前3時に満ちた
20年に一度とも言われるスーパーフルムーン(地球にいちばん近い場所で月が満ちる)と
春分とお彼岸が終わる頃に、地震も収まっていてほしいという願いもこめて
春分の区切りの日に、冷凍庫から出して翌朝に食べるのが楽しみなんだ。

地球を女性と例えるなら、解毒と浄化のムーンタイム(生理)も
きっとこのスーパーフルムーンを前後して、地震も落ち着いてくれるだろうと
信じていて、私の生理も(アトピーが悪化することなく)
無事満月前に終わったので、それと地震が落ち着くのではないか?
という期待もこめてね。(でも、また揺れてるね、そうだよね、そんなに
クッキリハッキリはいかないよね、揺れながら、バランスをとっていくんだろうね?)

身体が強ばっていて、なかなか熟睡できない日々、熟睡から目覚めた朝に
Chiho-chanケーキを私と地震後の回復のお祝いに、よくがんばった
ご褒美に食べるのだ!ほんとに私って食いしん坊だな(笑)
食べるために生きるんじゃないよ、生きるために食べるんだね。
いただきます。と、命を頂いて、私たちは生きてるんだよね。

地震以来、被災された方々には申し訳ないような気持ちになるけど、
毎朝、こうして美味しいコーヒーを飲める幸せや、
(まだ不安はあるけど)自分の部屋で温かい布団の中で眠れる夜を
心から感謝するようになりました。何か大きな力に生かされてるんだなと
ありがとうの気持ちでいっぱい。

長くなっちゃった。

誰かに聞いてほしかったんだ。

PS
Sは地震後の月曜日に
なんとか旅立ちました。いつも離ればなれの
夫婦ふたりの2週間のバケーション。
無事飛行機が飛んでくれてよかった。
今頃、温かい西の彼国から
日本のみんなの無事を祈ってくれてるはずです。
28日にはかえってくるそうなので落ち着いたら、
いっしょに遊びに行きたいです。
もうきっとお土産話がとまらないだろうね(笑)
みんなで再会できる日を楽しみにしています。

読んでくれてどうもありがとう。

生き延びましょう!

May the Great Spirit's Blessings Always Be with Us!!
Dear my friends Kan chan and Chiho chan (♡;♡)/

木瓜子

※写真は忘れられない夜の代々木八幡のじゃが豆カレー

Wednesday, March 16, 2011

The day before 3/11/2011

もう約一ヶ月前になろうか?
2月22日(火)ちょうど脱ステロイドリバウンドが始った時のこと。
風に当たっても痛い顔、全身ピリピリで動かせない首、上を向けない顔、
帽子にサングラスにマフラーを巻き、小田急線と総武線を乗り継いで、
なんとか辿り着いたのが飯田橋の漢方医院だった。
総合病院での薬を切り、頼れるのはそこだけだったのだ。
診察室に入って帽子とサングラスをとると、小鼻やオデコから
ドクドクと例の滲出液(黄色いリンパ液)が流れはじめた。
いいタイミングでの診察となった。週末からこのような状態で断食をしてもいいか?
と、先生(同年代でアトピー持ち)に聞いてみた。
すると先生は『炎症は酷いが、目に力がある!』と。
素直に嬉しかった。

これだけ見た目に酷い状態の顔をしていたのに、先生は表面じゃなくて
ちゃんと見ていてくれてる!塗り薬の相談も、先生ご自身がアトピーなので、
総合病院で処方される非ステロイドのワセリン系軟膏についても話しが早くて、
それについては、先生と患者というよりアトピー同士の意見交換という感じで、
軟膏や保湿クリームの使い方について話しができた。先生はS皮膚科医の保湿クリーム
で、ほとんどカバーしているそうで、ただ傷にはしみるし、塗った後に痒くなることも
あるその保湿クリームの特徴をよくとらえていて、逆にしみさせて痛くして掻かない!
というなんともM(笑)的なやり方で日に2度その保湿クリームでケアしてるのだと。
これはアトピー同士でないと成り立たない会話だったのが笑えた。
痒さを堪えるか?傷みを堪えるか?どちらにしてもMだよね(笑)
これであの非ステロイド、ワセリン系軟膏とも決別することができた。

この後、このとき処方された漢方煎じ薬と、
脱ステリバウンドと小麦抜き、そして断食と続いていったのである。

Sunday, March 6, 2011

My life as Atopy 2 Medical Record


断食明けて間もないのに調子に乗って、
スタバでソイカプチーノ飲んだら胃散が上がってきた。囧rz
これが気をつけなくちゃいけないことだったんだよな。
わかっていたのに、ついムードと久々の外出に浮かれちゃったんだな。
相変わらず修行が足りないなあ。

ま、もう飲んじゃったんだから、
胃袋さんにがんばって受け入れてもらうしかない。

これは塗り薬と同じ。
脱ステロイド真っ最中、リンパ液が流れてきたときに何を塗っていいかわからず、
とりあえず非ステロイドのワセリン系軟膏を塗って、明らかに悪化した。
おかしいな?と、疑心暗鬼だったのにもかかわらず、
ほかに塗るものがなくて、何塗っていいかわからず、とりあえず塗ってみて
効果をみて対策を考えようと、脱ステに苦しみながらも人体実験の日々。
漢方医さんとツイッターで同じ脱ステロイド経験をしたことがある方からの
メッセージとアドバイスで、今まで非ステロイドだから大丈夫!と、
処方され続け半信半疑ながらも他に代わるものを
見つける時間も手間もお金もなかったので、保険が効いて処方されるままに
使い続けてきたワセリン系軟膏とも決別した。脱ステ&脱ワセリン

アトピー肌には保湿は常套句。
確かに普通の乾燥肌の人よりさらに乾燥していて、
鱗粉が舞い飛ぶけれど、それでもこんなベトベトしたものを
一生塗り続けなくてはならないなんて、理屈では正しいのかも知れないけど、
実際塗ってる人にとって(これは私の個人的な感覚かも知れないが)
あれは一時的にはありだけど、傷のない肌には毛穴をふさがれる感じがするし、
油分で無駄なニキビができるし、決して心地よいものではない。
今ではサンスクリーン効果や、より精製されてなめらかになってるものもあるが、
結局は植物性由来のものが配合されていても石油化学製品なんじゃないか思う。
成分由来を詳しくしらべたことはないが…

そうだ!保険の利く医者の処方の薬には薬効と副作用の説明はあっても、
成分の説明はないんじゃないか?それもおかしいよな?
化学薬品だから、素人に説明しても仕方ないのかも知れないのか??

しかし、ステロイド軟膏だけでなく非ステロイドの軟膏にまで落とし穴があったとは⁈

ふりかえれば、これらのワセリン系軟膏もステロイドを
薄めて混合軟膏を作るための溶剤のようなものなんだと気づいた。
ここ10 年ぐらい信頼してきた近所の皮膚科クリニック(突然閉院した)の女医さんが
何種類かの軟膏を私の症状に合わせて混合して処方されてた混合軟膏を
よく効く非ステロイド軟膏だなと信じて、使ってきた。
で、あるとき、処方の際に貰うお薬手帳用の説明シールを見て、
そこに弱いステロイド軟膏がブレンドされてたのを知った。
どうりで、効くわけだ。
ただ、この混合軟膏は私の肌にあっていたのか?
その女医さんは近所でも評判の患者の話をゆっくりと聞いて
その患者の性格と体質にあった治療と処方をするので、きっと
私の性格を見抜いて、私が最近のアトピー治療のトレンドは「ステロイドも使いようなのだ」ということを理解していたから、何も言わずにその時の最善の処置として、
微弱ステロイド混合軟膏を作ってくれていたのだろう。
たしかにその混合軟膏は1日~2日塗ればよくなった。
医者は保湿のために塗り続けろとはいうが、
私は基本ズボラなのと面倒くさがりなのと薬が好きじゃないので、
塗ってよくなれば、すぐに止めて自分のお気に入りな自然派スキンケアなどに
すぐに切り替えてしまって、塗り続けなかったのがよかったのか?
ステロイド依存にもならなかったし、表立った副作用は見られなかった。
内臓はどうだか知らんけど。

これはたまたまだったのか?肌の本能がそうさせたのか?
そのズボラで面倒くさがりな適当さが役立つこともある。

にしても、そのワセリン系軟膏は長く使っていた。
おそらく物心つくまえから使っていたんじゃないかと思う。
もう記憶も遠いが、私が生まれた病院の皮膚科には生後2ヶ月から
私のアトピーのカルテがある。10代の時に初めてアトピー入院したとき
主治医にくっついてくる担当医が、調べて驚いていた。

最近は混合軟膏は各薬の効果が患部意外に悪影響を及ぼしてしまうので、
あまり混合軟膏は処方しないというトレンドもあるんだそう。
その私が生まれた総合病院の東大出の名医?と呼ばれる皮膚科医はそう言っていた。
近所のクリニックで処方されたものと同じ配合で作ってほしかったのだが、
あっさり断られた。医者にもプライドがあるんだなぁ、他の医者と同じものを
出すわけにはいかないんだな〜と思ったが、そこで出されたのが山ほどの
リンデロンVG軟膏チューブ!これじゃ、処方でも治療でもなくて薬屋じゃないか!?
しかも20年前となんら変わってないじゃん!?
医者は簡単だよね、ステロイドそのまま処方すればいいんだからさ。

そして、非ステロイド軟膏。私には日に2度塗るステロイド軟膏のつなぎに
肌が乾燥して痒くならない保湿のために、そのワセリン系非ステロイド軟膏も
山のように処方されたことがある。

非ステロイドだから強い副作用もなく万人向きというようなイメージだった
ワセリン系軟膏、私もはじめは安心して全身に使っていたが…どうも心地悪い(以下前出)
ステロイドあってこそ、その溶媒剤としてのチカラを発揮するものであって、
説明にこそ傷や炎症に効くようなことが書かれているが、
実際アトピー肌の人が使用すれば、バリア機能が低下している肌に
油分で蓋をしてしまうだけで浸透はしないし、熱をもったり、塗りこむ際の摩擦で、
皮膚がこすれよけいに痒くなってしまうなんてことは、アトピーの人なら
一度は経験があると思うが、良心的な医者ならそのぐらいの説明はあるが、
注意書きや使用上の注意はひとつも書かれてない、もちろん薬剤師からも
そんなひと言はない。ネットのお薬辞典など調べても、合わない場合は使用を中止、
医師の〜どこにでもある注意書き程度なのだ。

臨床しない、話を聞かない医者がいかに多いことか?
もちろんそうじゃない医者もいるが、なかなか巡り会えないということは
やはりそういうことなんだろう。薬効をいちばん感じているのは、
医者ではなくて患者なのに!患者の声を聞けば
薬の良し悪しだけでなく、アトピー治療の研究にもなるだろうに。

続く

写真は断食明けの朝の雲ひとつない青空。

Wednesday, March 2, 2011

My life as Atopy 1 Fasting Week Now!!


総合病院の皮膚科にかかるのを止めると決心して、それは昨11月の緊急アトピー入院以来
不本意ながら3ヶ月も使い続けてしまったステロイドを止めるということで、それとほぼ
同時に小麦抜きもはじめて、先月のPMSの頃から始った脱ステロイド特有のリバウンド症状。
浸出液とかリンパ液と呼ばれる黄色くて血の匂いがする液体が顔からドロドロとマグマの
ごとく、瞬く間に流れ出し、顔は腫れ上がり、顔、首、デコルテ、肩、上半身が心臓になって
しまったように、ドクドクと脈打ち、痛みと掻痒感で眠れない悪夢の日々が続く。
「来たか!?」と、覚悟を決めた。

このような脱ステロイド症状は私のアトピー史上3度目のこと。
使用期間を考えれば、過去いちばんダメージが少ない…とはいえ、そうじゃなくても
すっかり曲がり角を過ぎてしまった肌と年齢もある、どうやって回復させるか?!
それでも、今回はどこか気持ちが落ち着いていた。

小麦抜きの好転反応だったのかも知れないと思ってる。
PMSに伴って、いっきに吐き出されはじめた感じがした。
小麦だって、アレルギー反応を起こしていたわけではない。食べ過ぎていたんだ。
ステロイドももうわかっていた、数ヶ月とはいえいちど決別した医者のいうことを
信じてみようと塗りはじめたが、20年前となんら変わりのない診察と処方に見切りを
つけた。病院で保湿用にと処方される非ステロイド軟膏でさえ使いながらも半信半疑??
食べ過ぎ、薬の使い方、もう身体が限界だったんだろう。
なんか身も心も詰まってる感じがずーっとしていた。

断食しようと決めたのは、小麦抜きをはじめた頃からだったので
ちょうどいいタイミングだったんだと思う。生理後の体重が落ちやすく
なっていく時期と浄化に向かう新月に併せて、約2週間の軽減食→断食→回復食
というスケジュールを企てた。
これは京都の高雄病院で行ってる断食コースを参考にしたもの。
以前にこの病院には大変お世話になって、この病院に入院した際に経験したことや
ドクターとの出会いが、私のアトピーに対する考え方の指針になっていた。
最後に入院してたのは15年ぐらい前のことになるけど、高雄病院に入院したことは
忘れられない…のだが、傷みや辛かったときの記憶は、もう二度と経験したくないからか?
入院中の楽しかったことはよく覚えているが、辛い傷みの
記憶がほんとうに飛んでいた。
激しい掻痒感と傷みと流れ出るマグマ(リンパ液)の匂いで、
その傷みと辛かった日々が一気にフラッシュバックする。

10代の終わり、20代ど真ん中に、シーツを血だらけにして、
この脱ステロイドをして入退院を繰り返して来た。
もうステロイドを使うことはないだろう…と、終わらせていたつもりの
30代はアトピー出す間も薬を使う間もなく、駆け抜けてきた。
年齢やストレスによる、アトピー以外の症状には悩まされはじめたが、
それでも、過去の酷いアトピーと比べたらたいしたことはなかった。

皮肉なことに、そのステロイドの影響とも言われる
アトピー性(外傷性)白内障になり、あっという間に
見えなくなってしまった。手術後アトピーまで悪化した。
まさか、今になって過去の総決算をするようなことになるとは…